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春雷記  作者:
断章

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390/397

朝比奈(~43-1)

遠江の兵が京から戻り、信濃と揉めていた頃の今川館にて

 横たわるその御姿に、胸が詰まった。

 お元気だったころを鮮明に覚えている。戦場を颯爽と駆け、常に鮮やかな赤を身にまとっておられた。

 幼い朝比奈はその目がくらむような強さに憧れ、この御方にお仕えできる事を心底誇らしく思ったものだ。

「……御屋形様」

 それが、今は枯れ木のように細く、真っ白な夜着とかわらぬぐらいに御顔の色も悪い。

 御身を気遣ってそっと声を掛けると、青ざめた瞼がかすかに震えた。

 このところはずっと眠っているという。もう長くはないのかもしれない。

 朝比奈は、ぐっと手を握りしめた。

 まだ早い。この御方がいなくなれば、今川はどうなる? 無事では済むまい。

 十年とは言わぬ、あと五年。五年でよいから生き永らえて欲しい。

 見守っているうちに目が開き、死人のような青い唇がゆっくりと動いた。

「備中守か」

 生気のない、細いお声だった。

 再び込み上げてくるものに奥歯を噛みしめる。

「もっと近う参れ。顔がよう見えぬ」

 今もそれほど距離があるわけではない。ただ、臥所に膝が触れるほどの近さは信頼の証だ。

「……ご機嫌など麗しゅうはない。余計な挨拶などいらぬ」

 近づき、改めて両手を床について御挨拶しようとした朝比奈に、擦れて聞き取りにくい声がそう言った。

「あれはどうしておる」

 あれ、というのが勝千代殿だというのは言われずともわかった。

「……は」

 果たして本当のことを話してもいいものか。

 だが一瞬手元に逸れた視線を戻した時、鋭く刺すような目で見られている事に気づいた。

 明日をも知れぬほどの御不調だろうに、その眼光は炯々とし、そこだけ別人であるかのように生気に満ちていた。

「実は」

 黙っている事は出来なかった。信濃国境が侵され、寡兵で事にあたった福島家に甚大な被害が出た。ご当主福島殿も生死不明。

 真偽はまだ不明ながらも、そういう知らせが入ったばかりだ。

「……北遠か」

 やがて御屋形様が静かに言った。

 しばらく黙って天井を見つめ、何やら考えておいでだったが、ややあって「信濃を獲れるか」と小声が聞こえた。

 そんなお身体で、なおも遠謀をめぐらせておられるのか。

 冗談だろうと思ったのだが、再びこちらを見た御屋形様の表情は真剣だった。

「あれは信濃へ入ったのか?」

「勝千代殿の事でしょうか? あの御方は進んで戦端を開こうとはなさいません。おそらくは砦を奪回し、福島殿を探しておいででしょう」

「攻め獲れたであろうに」

 いや本気で仰っておられるのか?

 朝比奈はまじまじと主君の顔を見つめ、どうやら冗談でもなんでもなく本気らしいと察した。

 どう答えるのが正解かわからず黙っていると、御屋形様はゆっくりと瞼を落とされた。

「あれの呼びかけでどれぐらい集まった?」

 囁くような小声。おそらく天井裏に忍びの者がいても、聞き取る事は出来ないだろう。

 朝比奈もわずかに顔を伏せ、口元を隠しながら答えた。

「三千から四千では」

「信濃にそれだけの兵を集める家はあるか?」

 それはそうかもしれないが……。

「父親が討ち死にでもしようものなら、跳ねたであろうよ」

 その口ぶりでは、福島殿が死んだとは思うておられないのだろう。

 結局はやはり思索遊びかとほっとして、「そうかもしれませぬ」と頷きを返す。

 御屋形様がこのような状態の中、大きな戦が起こらずに済んでよかったと心から思う。


 京での出来事を報告すると、いくらか楽しそうになさり、御顔の色も随分と良くなってきたので安堵した。

 お疲れのようだからそろそろ下がるべきかと話を切り上げ、「また参ります」と頭を下げたその時、伸びてきた右手がぐっと直垂の袖をつかんだ。

 節の高い大きな手だ。だが痩せ衰えて、死人のように青白い。

 朝比奈は、引き留められたことよりも、その力の強さに驚いた。

 はっとして御屋形様の顔を見ると、あの炯々とした目がより一層強い光を纏ってこちらを見上げていた。

「見極めよ」

 ほとんど唇の動きだけの、囁き声だった。

「能力はあっても、その気がないのでは任せられぬ」

 何を、とは問い返さなかった。御屋形様の臥所の中に隠されていた左手が露わになり、握りしめているのが見覚えのある小刀だという事が分かった。

「託してもよいと思うたら渡せ」

「……それは」

「覚悟がないなら酷であろう。覚悟もないのに背負うべきでもない」

 何と重いものを……と受け取るのをためらっていると、御屋形様は無理やり押し付けてきた。

「上総介は弱い」

 その熱に浮かされたような御言葉を、まともに受け取ってもいいものか。

 これ以上聞くべきではないのかもしれないと思いつつも、残された命の熾火を燃やし話し続ける御屋形様を遮る事は出来なかった。

「御台がついておるうちは駄目だ。ひとりでたてぬようでは任せられぬ」

 お二人ともまだ子供だ。若く、幼く、上に立つことなど思いもよらないのも、周囲の大人を頼るのも、そうあって当然の年頃だ。

 だが苦労している分勝千代殿は思慮深く、それでいて迷いのないまっすぐな目をしておられる。

 御嫡男上総介さまは御台様にあつく守られていて、まだその資質すらうかがい知ることができない。

「時が足りぬ」

 ぽつりとこぼされたそのひと言が、すべてだった。

 あと五年あれば、上総介様の派閥体制も整い、誰からも不安視されずに今川家当主として立てるのかもしれない。

 だが今のこの状態では不安しかなく、おそらく今川家は駿河と遠江で二分する。

 御家を割らない為には、御屋形様の命が尽きる前にどちらかを選び、どちらかを切り捨てなければならなかった。

 朝比奈は若干震えている手から小刀を受け取った。

 御屋形様にとってはどちらも実の我が子だ。その選択は片方を殺し、片方を生かすだろう。だが選ばぬままでは、いずれ火種は大きく燃え盛り、今川家を食いつくすに違いない。

 重い選択だ。御屋形様にとっては、おそらくはご自身の命よりも。

「……お任せを」

 朝比奈は主君のその重荷の一端を背負うべく、預かった小刀を腰に差し、深々と頭を下げた。

DMでご指摘のありましたことについて説明いたします

寝殿造りの構造について、渡り廊下や回廊などという名称はない、とのことです

建屋と建屋を結ぶ屋根付きの渡り廊下は、正式には「渡殿」といいます

部屋を一周する回廊は、正式には廊下ではなく「簾子すのこ」です

検索していただけるとわかるかと思いますが、非常に専門的で、現代の私たちにはピンとこない言葉が多いので、作中ではわかりやすく渡り廊下などと表現しています

詳しく書くのならひさしとか母屋もやとか、簾子と廂を隔てるのはパタパタ上下に開閉できる上半分の蔀戸しとみどとか襖じゃなく雨戸じゃねとか、まあいろいろあります

詳細を表現しきれず、申し訳ありません

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― 新着の感想 ―
でもなあ。普通に御台を遠ざけて嫡男教育すればよかった。養子に出した子に今更期待するのは筋違いでしょ。実子が一人と言わず不審死してるのに見て見ぬふりしてる時点でなあ。
[一言] 53-4で朝比奈から「お守りです」って渡された小刀って、もしかして御屋形様から渡されたこの小刀か!と、2回目の周回で気づきました。 お勝様が伊勢を敵と定めて今川を守ると決めた時点で、朝比奈は…
[気になる点] 今川館は、現存もせず資料も乏しく、建物がどのような構造だったのか不明なので、おおよそでいいのでは?とも思います。学術論文なり資料集等であれば、精度の高いものは求められるとは思いますが、…
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