奥平(~54-2)
―――死ぬ。
間近に迫った鋼の色に、それでも奥平は動かなかった。
動けなかったわけではなく、明確に意志を持って動かなかった。
女官殿たちが全員十分に遠ざかるまで、何人たりとここを通す気はない。
「奥平様っ!」
直属の配下の大きな声が遠くで叫んでいる。
こちらには来るなよ。ここから先は下級武士は入る事を許されていない場所なのだ。
折れた刀を握ったまま両腕を広げて、一歩も譲らぬと目を見開く。
だが刀は躊躇なく振り下ろされ、奥平の意識を刈り取った。
思えば運のない人生だった。
生まれはそこそこに良かったのだが、父の代で立つ陣営を見誤り多くを失った。
それでも許され生かされたのは悪運が強いというべきか。
生かされたと言っても自領を失ったのは大きな痛手で、奥平は嫡男だったが故に、両親祖父母を抱えて、若い頃から随分と苦労をした。
元服してすぐ今川家に仕官しようとしたが、最初は叶わなかった。
各所を転々として、泥臭いが必死になって這い上がり、今川館の下級武士に収まったのは二十代も半ばになってからだ。
結果を出し優秀だと示してみせても、配属された先の上役に手柄を攫われるなど日常茶飯事。ようやく運が巡って城を任されるまでになっても、上の気分であっという間に取り上げられる。
……珍しいことではない。領地も持たない貧しい下級武士の扱いなどそんなものだ。
都合よく使い潰されるために存在すると言ってもいいのかもしれない。
故に縁あって同僚となった今川館の文官たちも、上から目を付けられないよう日々顔を伏せるだけなのは理解できるし、それが当たり前だとも思う。
どんなに不正が行われていても、目の前で大金が懐に収められても。見ぬふりをしなければ、今川館では生きていけない。
奥平には年老いた両親と寝込みがちな祖父母がいる。ここで仕事を失うわけにはいかないのだ。
だが一陣の風が吹いた。いや風などという生易しいものではなく、突風だった。
三河が攻めてきた理由を知っていて、内心それに対して複雑な思いがあった奥平にとっては、すべてをなぎ倒す圧倒的な風が希望に見えた。
若君とのご縁は、それほど良いものではない。初対面から睨まれたし、嫌われていたとさえ思う。
やむを得ないことだ。
奥平は長らく、桃源院様に命じられ、やりたくもない裏の仕事に多々手を染めていた。
あの御方はずっと長くそうやって「御家の安泰」を保っているのだそうだ。
だが誰かを陥れ、誰かを密かに葬り、無理やりに道を均すことが果たして「安泰」と言えるのだろうか。
いや、それが上の方針なのだから、下っ端にはどうすることもできない。
その時の奥平は遠江の国人衆の粗探しと、福島家の勢力を削ぐ事に邁進していた。
何故なら、桃源院様からそうするように命じられていたからだ。
雇われの立場で、勝手なことなどできるはずもない。
ただ、御屋形様に瓜二つの若君の御姿に、込み上げてくるものがあったのは事実だ。
四年前の三河侵攻以降、奥平は可能な限り若君から距離を置こうとした。
理由は、あの御方に不利益になるようなことをしたくなかったからだ。
故に、誰もが嫌がる京行きを志願した。
遠国出身の下級武士は、京の者たちからは常に下に見られ扱いが悪い。それはたとえ今川家の者だとしても変わらず、幕府での対応は屈辱的なものだった。
だが、どこでもそれは一緒だ。
奥平は米つきバッタのように這いつくばり、床に額をこすりつける。一回り以上若そうな相手でも、どう考えても奥平より身分が低そうな相手にでも。
そうしなければ、お役目が果たせないからだ。
厄介ごとを押し付けられるのはいつもの事だった。
いつもの事なので、その小坊主を見た瞬間にすぐに気づいた。
そもそもご本人に隠す気がないようで、大声でわめきたてるものだから、おそらく口にはしないが周囲の無関係な者たちも気づいていたと思う。
指示書は確たるもので、この御方を駿府に連れて帰れというものだった。しかし書簡が届くまでの時間を考えると、状況が変わる前に書かれている。
さすがにこれはまずかろうと、わざと進みを遅くして伏見での足止めを受けいれた。
配下の者たちも察しているのだろう、縋るようにこちらを見てくる。
判断を下すことを期待されていた。それはそうだ、この中で一番身分が高いのは奥平なのだから。
だが奥平は、自身の判断というものを信頼していなかった。
悪運の強さがこういう時にこそ発揮されるのは、身に染みてわかっていたからだ。
迷いに迷っているうちに、街道が封鎖され、物理的に動けなくなった。
ほっとしたが、それは問題を先延ばしにしただけだ。
そしてまた風が吹いた。
正直な所、大概の者にとって扱いに困る案件だったと思う。
だが若君は迷われなかった。浴びせられる悪口雑言にも怯まれなかった。
その時、奥平は自身とこの小さな若君との差を思い知った。
身分や立場ではない。迷いなく正しい方を選択できる強さは、奥平にはついぞ持ちえなかったものだ。
だから、今度こそ間違えまいと顔を上げた。
桃源院様が蟄居させられたというのも原因のひとつではあるが、代わって大きな顔をしようとした者たちに従うのはやめた。
もちろん当たりは強くなった。だがそれでも引かない姿勢を見せると、そんな奥平に続く者たちが出てきてくれた。
その数は思いのほか多く、身分を笠に着た不条理に、真っ向から対立する勇気をくれた。
奥平は、自身が清廉潔白ではないとわかっている。
そして今、案の定というべきか、ため込んでいた業のつけを払う時が来た。
奥平も顔を覚えている伊勢家の武士たちが、今川館に押しかけ、奥を制圧したのだ。
窮している公家屋敷の何倍も美しく整えられた庭が踏み荒らされ、顔が映るほど磨かれた床が土足で踏み荒らされる。
武骨な手が調度品を漁り、無遠慮に若い女中たちの尻を追う。
栄えある伊勢家の家臣ではないのか。桃源院様の御実家ではないのか。
到底許せるものではなかった。
怒りをこらえながら、北殿から逃れてきた女官や女中たちには勝手方の蔵の方に隠れるよう指示した。
できれば敷地の外に出したかったが、出入り口には伊勢方の見張りがついている。女たちを御勝手門から逃そうにも、見張りの兵がいなくなるまではどうしようもない。
館の警備はどうなっている。まさか無法者たちに迎合しているのではないだろうな。
興津殿はどうした? 今朝がたまでは確かに警備の兵がいたはずなのに。
「奥平様! 伊勢家の方が帳簿を見せよと」
「声が大きい」
奥平は苛々と舌打ちしながら顔を上げた。
文官たちがこちらを見ている。下級の者たちだけではなく、中堅どころの者まで。
「桃源院様と御台様の御指示だとのことです」
そう囁く年配の文官の唇は震えていた。恐怖からか顔色が悪く、今にも倒れてしまいそうだ。見れば周囲の者たちも不安そうな顔をしていて、皆がすがるように奥平を見ている。
そうだ、誰だって怖いのだ。
奥平は大きく息を吸った。
ここでその御命令に背くと、明確に自身の立場が決まる。果たしてそれが正しいことなのか。そんなことはわからない。
再び肝を縮めながら、震える息を吸った。
脳裏にあるのは、御屋形様に瓜二つの若君の顔。あの方のように、迷いなく正しい判断を下すのだ。
「重要度の高い書類をまとめて隠せ。一か所にはまとめず、分散させるよう」
囁くようなその声に、誰が息を飲んだのか。
奥平はさっと周囲を見回して、青ざめた顔をしている者たちに、代わりになるそれらしい書類を用意するようにと伝えた。
ドタドタと荒い足音が近づいてくる。猶予はない。
奥平は胸を張った。
呼吸を整え、襟元を正す。
すっと扇子を腰に差し、背筋を伸ばして、足音の発生源に向かって足を踏み出した。
「お、奥平様!」
「あとは任せた」
部屋を出て、後ろ手に襖を閉じた。
今川館の文書方の部屋は多いので、すべてを改めるのには時間が掛かるだろう。
その間にやるべきことがあった。
奥平の足は、まっすぐ奥殿へ向かっていた。
桃源院様あるいは御台様に、事の真偽を確かめるためだ。
何故他国者である伊勢に帳簿を渡さねばならないのか。はっきり問い正したかった。
本来、奥平には踏み込むことは許されない奥殿の渡り廊下を過ぎると、あたりに漂うのが墨の匂いから香の匂いにかわる。
「何奴!」
大声で怒鳴られて、どちらがだ! と怒鳴り返してやりたいのを堪えた。
大きく開け放たれた襖の向こうに、白い襦袢の裾が見える。女中ではなく女官殿のようだ。
カッと目の奥が熱くなった。込み上げてきたのは怒りだ。
「何をしている!」
今の奥平は文官として今川館に出仕している。つまりは帯刀しておらず、丸腰だった。
もしそうでなければ、刀を抜いていただろう。
襦袢をはだけさせ、白いふくらはぎをバタバタ動かしていたのは、まだ若い……というよりも幼い女官殿だった。
口を手で押さえられ声を出せないようにされ、涙で頬を濡らしている。
目が合った。助けてくれと懇願されている。
奥平は足音も荒く室内に踏み込み、怯えて丸くなる複数の女官殿たちと、血まみれでこと切れている女官を目にした。
「……なんということを」
対する武士の方は二人だった。
止めに入った奥平を今川の下級文官だと見て侮ったのだろう、焦っていた男たちの顔が下卑たものに変わる。
ひとりが刀を振りあげた。それをよけ、足でみぞおちを蹴り上げる。
それを見たもう一人が、下帯を解いた状態のまま慌てて刀を拾い上げようとした。
十分に対処は可能だった。
敵は二人だが、刀を抜いているのは現状ひとりだし、攻撃があまりにも大ぶり過ぎる。
奥平は落ちている刀を先に拾い上げ、再び繰り出された一撃をよけながら、見苦しい下半身むき出しの男の喉を突き刺した。
噴き出す鮮血が畳に飛び散り、男の野太い絶叫が上がる。
「あっ、あ……」
怯えて声を上げるのは、刀を握っている方の男だ。
女たちが悲鳴も上げずにいるのに、情けないことだ。
「何だ! 何の声だ!」
男の悲鳴を聞きつけたのだろう、奥殿から人が集まってくる。
「お、奥平様」
渡り廊下の向こう側に、複数の同僚たちがいるのが見えた。
心配して追ってきてくれたのだろう。
奥平は既に戦意喪失している男にもう一度蹴りをくれてから、震えている女官殿たちに逃げるようにと目で告げた。
久々に握った刀は、ずしりと重かった。
死んではおりませんw
奥平は文官系ですが、実戦経験もあるので、戦えます。
ただし強くはありませんw
勢いあまって、普段の倍量書いてしまいました




