妙姫(~48-4 北奥奮闘記)
わかっておりました。頭を下げる事こそが生き延びる術だということは。
それで一門が救えるのなら、いくらでも下げてみせましょう。
父が早世し、堀越を継ぐ弟はまだ幼く。
本来ならばわたくしが婿を取り、弟が当主として立つための中継ぎをせねばならぬのに。
堀越家は桃源院様の御意向により、その道を絶たれてしまいました。
当初は、御屋形様のご側室として上がるというお話でございました。御子を授かれば一門にとっても名誉なこと。故にお受けしますとご返答したのです。
ですがそもそも御屋形様に御目通りする機会すらございませんでした。
これでは側室どころか、人質と変わらぬ扱いです。
わたくしのような立場の子女は大勢いて、今川館の奥はまるで座敷牢のようにございました。
ここでは御台様が主です。何事もその御意向に沿うよう徹底され、北殿の奥一角には桃源院さまですら口を挟むことはありません。
朝はまず御台様へのご挨拶から始まります。
日も出ぬうちに身支度をして、決まった刻限に広い一室に集められます。
全員がそろった後に、序列の順に御台様の御前に進み出て口上を述べます。
わたくしども殿のお渡りのない者は後の方に回され、くすくす笑う女房どもの前でただ従順に頭を垂れねばなりません。
屈辱? いいえ。先にも述べましたが、わたくしの頭一つで済むのなら、いくらでも下げます。
上座で物憂げな御様子をなさっておいでなのは、今川家当主の御正室。お仕えする主にございます。
気の毒な御方なのです。御屋形様の足も遠のき、むしろ警戒の目を向けられていることにお気づきなのでしょう。最近は御側室様方へのあたりが強く、特に御子のない御方へは容赦なさいません。
幾人かが病を理由に里へ戻されましたが、今もまだ御無事かどうかはわかりません。
京女の陰湿ないじめは見るに堪えず、わたくしが矢面に立つことも多々ありました。
御一門衆である我が堀越の名は、こんな時にもわたくしを守ってくれます。亡き祖先や父母への感謝をゆめ忘れる事のないようにしなければ。
菩提寺で父母の法要を済ませた後、今川館に戻る途中、とある人混みと行きあったことがございます。
騒ぎというほどの事でもなく、それにしては人が多いので、何かあったのかと供のものに調べさせました。
その時に、初めて小さなあの御方にお目にかかったのです。
いえ、お目にかかったというには距離がありました。
それでも、御屋形様によく似た面差しの御子であることは見てとれましたし、兄弟らしき男童と手をつないで歩く様が印象的でございました。
それを見たわたくしの胸に去来したのは、危惧でございます。
里に戻された御側室様方の、打ちひしがれた青白い顔が脳裏に浮かびます。
ふと、若君の目がこちらを向いたような気がいたしました。
わたくしなど群衆のごく一部で、確かに護衛の者たちに囲まれてはおりましたが、それほど目立つものでもありませんでした。
若君がわたくしを認識したとは思えませんし、往来でわざわざ声をかけて挨拶するのも御迷惑でしょうから、軽く頭を下げただけで群衆から離れました。
それが、後に生涯の主君となります御方との出会いでございました。
直に御言葉を賜る二年ほど前の事です。
わたくしが聞き出そうとせずとも、福島の若君の話題は奥でまことしやかにささやかれておりました。
そのほとんどが誹りなのは、御台様を慮ってのことでしょう。
ただ誰も声を大にしては言いません。何故なら他ならぬ御屋形様が、福島の若君をお気に掛けておられるのが傍目にもわかるからです。
御台様はそれを面白く思っておられず、日々苛立ちと鬱積が募っておいでのようでした。
福島の若君ご自身は、今川館に近づくのを極力避けておられるようです。
賢明なご判断だと思います。
わたくしども奥の女たちにとって、苦難の数年でございました。
そんな中、皆の心の潤いとなりましたのは、奥の警備をつとめます武士の存在です。
多くの男と接することのない奥の女たちだけではなく、男に交じって働く女中たちもが、その顔をひと目見るなり頬を赤らめます。
武家の男に必要なのは容姿ではありません。それでも、美しいものは美しく、あれほどの美男子であればその他の事はどうでもよくなります。
驚くべきことに武の福島家の重臣で、戦に出る事も多いと聞きますから、天は二物どころか三物四物もお与えになられたのでしょう。
わたくしとて、一度ぐらい話をしてみたいと思うたことはあります。
ですが別個に呼び出そうともそれに応じる事はなく、偶然を装い廊下をすれ違う際ですら熾烈な争いが勃発するそうです。
女だけではなく、男たちもあの顔を見ようと詰め掛けていたと、そう聞かせてくれたのは、縁あってわたくしが嫁ぐことになる八郎様にございます。
八郎様とのご縁を頂いた際に、初めて渋沢殿の顔を間近で拝見しました。
近くで見てもたいそうな美男子でございました。
前髪を落として十年は過ぎておりましょうに、匂いたつようなあの美貌はなんでしょう。
近くによると実際にいい匂いも致しました。
低いお声がゾクゾクするほど色気に満ちておりました。
噂好きの女中にこの話をしてやれば、きっと歓声をあげ羨ましがることでしょう。
嫁いでなお別の男の話をするのなどはしたないと思われるでしょうか?
いえ最初の頃、八郎様との会話で一番盛り上がるのが渋沢殿の話題だったのです。男の目から見てもあの美貌は驚異のようで……
渋沢殿の事を語ればもっと延々話せそうですが、それはまた別の機会に致しましょう。
我が夫、八郎様は北条家の御生まれです。
父君は桃源院様の弟君で、北条家を起こされた英傑でございます。
御屋形様とは従弟の関係に当たられ、八郎様はまだ物心も付く前の幼い年頃に、両国の友好のために今川家重臣の養子となりました。
不遇は記憶にある最初からだと聞いております。
わたくしも堀越家の生まれにございますから、今川の一族については詳しいと自負しておりましたが、寡聞にして八郎殿のことは知りませんでした。
目立たず息を殺して生きてこられたそうですから、やむを得ないのかもしれません。
駿河衆は上総介殿を支持する桃源院さまの派閥が主流です。
そんな中で、八郎殿の血筋が扱いづらいのは確かかもしれません。
それでもここまで除け者にされ、居ない者として扱われるような御身分ではないはずです。
今更腹を立てても仕方のないことですが、この妙がお側に上がったからには非礼は許しませぬ。
誰ですか、その御身に傷をつけたのは。
嬉々として暴行を加え、食事も与えず、水といえば頭から桶でかけるだけだったとか。手足の爪が剥がされ、あちこちに火傷を負わされている様子を目にしてしまえば、怒り以外の感情はわきません。
わたくし、殿方の裸身を目にしたのは生まれて初めてでしたが、恥ずかしさより先に殺意を覚えましたわ。
八郎様は我が夫です。夫の敵はわたくしの敵です。
夫に手を上げた者は、誰一人として生かしてはおきませぬ。
命じられただけ? おほほほ、面白いことをいうものです。それでは一族郎党の介錯をした後に、腹を切って詫びろと命じましょう。
出来ぬ? 武士の風上にもおけぬ下種どもめ、首を落とした後は細切れにして、犬にでも食わせて……おほほほ、申し訳ございませぬ、御聞き流し下さいませ。
これが武家の妻というものなのか(絶対違う




