北条左馬之助(~50-2 河東の戦い前)
初見、一条邸でその後ろ姿を目にしたとき、武家というには貧相な子供だと思った。
小柄でいかにも頼りなく、首など片手で折れそうなほど細い。
身なりも地味で、公家屋敷にいるのだから公家の下働きの子供かと思ったほどだ。
だがその印象は、会うたびに大きく変わった。
恐ろしいと感じたのは、いつが初めだったか。
至近距離で視線が合った瞬間、この子供と敵対するのは悪手だと直感した。
小太郎いわく、あれは麒麟というより龍だそうだ。子供でも龍は龍。甘く見ては大怪我を負う……と。
その通りだと思う。
続く京での働きも、さっさと国許に引き上げる判断の速さも、猛将朝比奈殿を意のままに動かす度量も、たかが子供と侮るには手ごわ過ぎる。
幸いにも今川家で厚遇されているわけではないようなので、取り込めるかと期待した。
味方にすれば北条にとってこの上ない力になっただろう。それなのに……
力いっぱい脇息を蹴飛ばし、床が抜けんばかりの地団太を踏んだ。柱に当たり跳ね返って来た脇息をもう一度蹴飛ばすと、今度は襖に当たってバキリと木板が割れる音がした。
「左馬之助様」
脇息が真横を通っても微動だにしなかった遠山が、ふうふうと肩で息をする左馬之助を宥めた。
「落ち着いて下され。今は伊豆を取り戻すことを考えねば」
真顔でそう言う遠山とてわかっているだろう。
本音で話せば理解し合える相手だった。血縁もある親族なのだから、うまくやれば北条に引き込めたに違いないのだ。
「時運が悪うございました」
よくもそんな事が言える。長綱が勝千代殿を騙そうとしたのを見逃したくせに。遠山も試したのだろう、その人となりと才覚を。
「余計な事をっ」
あの時はまだ同盟軍としての友好関係があった。それが今や敵だ。
「攻め入ったのは駿河衆のほうです」
「そもそも長綱が上洛しなければ、伊豆は手薄になってはおらなんだ!」
伊豆が攻め落とされなければ、兄上も江戸から兵を退く必要はなく、今川との戦端が開かれることもなかったかもしれない。
……いや、わかっている。それは本質的な問題ではない。
北条と今川の蜜月関係が、従来通りにずっと続くと考えていたのが間違いなのだ。
そもそも国境を接した国が、絶対に攻め入ってこないと考えるのは油断が過ぎる。
この世に変わらないものはない。父の代の絆が永遠に続くと考える方がおかしいのだ。
「それにしても、あの若君が」
襖を割って転がった脇息を拾い上げ、遠山が小さな笑みをこぼした。
おそらくは遠山が思い浮かべたのと同じものを、左馬之助も思い出していた。
数え十と聞くが、千代丸君とくらべると随分と小柄で、線が細い。声も甲高く優し気で、喋る内容を聞かなければ女児が話していると錯覚してしまいそうだった。
一見すると頼りなく、気性の荒さとは真逆の位置にいる少年だ。
困ったように左馬之助を見るその表情は、むしろ凡庸に見えたのに。
「……正々堂々、勝負せねばならん」
「大人の矜持ですか?」
揺さぶりをかけるその口調に、左馬之助は鼻を鳴らした。
考え無しの呑気者だとさんざん皆にいわれるが、これでもちゃんと目はついている。
勝千代殿はこの戦で名を上げるだろう。
敵になるというのなら、手ごわいとみて掛かるべきだ。
今回は兄者も御自身で出馬される。所詮は子供の采配だと油断して、その武勲の糧にさせるわけにはいかない。
「左馬之助様」
声を低くした遠山に改まった口調で名を呼ばれた。
「ここだけの話です」
考えることがたくさんありすぎて、苛々している所に苛々する口調でそう言われ、したり顔の白髪頭を蹴飛ばしてやりたくなってきた。
「殿は今川家御嫡男との縁組をお考えのようです」
「なんだと」
急に毛色の違う話になって、こちらの声色も変わる。
両軍が対峙し、今にも衝突しそうなこのときに……婚姻?
「今川軍を破り、有利な状況で和睦を結ぶおつもりのご様子」
婚姻による同盟の再締結か。……いやいや。
しれっと悪辣な真似をする実弟の顔を思い出し、首を振った。
あの長綱が、そんな穏便な方法を解決策にするとは思えない。何か策を練り込んでいるに違いなく、えてしてそれは、身内ですら怖気を振るうほどのものなのだ。
左馬之助はするりと顎をさすった。
幼少期から弟の相手には苦労した。あおりを食らってえらい目にあうのは大抵己だけだった。
長綱にしてみれば、兄弟の中ひとりだけ出家させられて鬱積した思いもあるのかもしれないが、そもそもああいう気質だから父上も僧籍に入れたというのは皆の共通認識だ。
とはいえ、仏門に入ったからといって丸くなったのは頭だけだった。
最近は兄者と悪だくみをすることが増え、小田原城も居心地が悪いことこの上ない。
左馬之助は長く息を吐いた。
「勝千代殿を討ち取って、という前提か」
「暗殺の指示はでておりませぬが」
「上総介殿に一姫あたりを嫁がせるとして、邪魔になるのは誰だ?」
遠山は左馬之助の言葉にしばし思案して、そのまま黙ってこちらを見上げた。
同じ結論に達したらしい白髪頭に、頷きを返す。
「……どのみち死が待っておられるという事ですか。非常に残念ですな。若君には世話になり申した」
「せめてこの手で討ち取って、楽に逝かせてやるしかない」
左馬之助は再び野太い溜息をつき、どしんと床に腰を落とした。
敵は手ごわいが、負ける気はしない。
自身の刃であの細首を切り落とす瞬間を想像し、さっと首を横に振った。
同情などむしろ勝千代殿に失礼だろう。
「……とりあえずは挟み討ちを進言してみるか」
全力を尽くし戦う覚悟をつけるのは、心情的に楽なものではなかった。
千代丸君……北条家当主北条氏綱の嫡男。後の三代目北条氏康。
なにげに勝千代と同い年です
一姫……名前ではなく一番目の姫君という意味です。史実では氏綱の娘のひとりが勝千代の嫁になっています




