誠九郎(~41-8 走馬灯)
小さな赤子の小さな手が、ぎゅっと指を掴んだ時を覚えている。
難儀な生まれをしたその子に、どうか幸あれと願ったのは誠九郎だけではないだろう。
だが同時に、細い声で泣く赤子の行く末は険しいものだと、誰もが察していた。
生まれてすぐに母親を失い、文字通り身ふたつに分けた兄弟とも離れ離れになった。兄上が引き取り育てると言ったときには驚いたが、兄は兄なりに察していたのだと思う。
凶星のもとに生まれついたこの子は、生涯苦難の道を往くだろう。
始まったばかりの時から足元は茨の道で、物心つくどころかまだ目もよく見えていないうちから命を狙われ続けてきた。
そんなに要らないというのなら、何故一姫を側室にした。
御屋形様は何故、この子らを守らせてくれなかった。
今更答えの出ない問いを、幾度胸のうちで呟いただろう。
「叔父上」
そう言って笑う笑顔の向こうに、愛らしい一姫の面影を見る。
「父上をよろしくお願いします」
船着き場まで見送りに来たのは、兄上が同じ船に乗り込まないよう捕まえておくためだ。
「任せておけ」
誠九郎がそう言うと、御屋形様に瓜二つの、だが表情は柔和で一姫によく似た甥はふわりと笑みを深めた。
ほころんだ口元は楽し気で、京行きを心底楽しみにしているのが伝わってくる。
風が吹き、元結で結んだ髪が揺れる。兄上の剛毛はそよぎもしないのに、勝千代殿の柔らかな髪はふわふわと風に靡いている。
陸から吹く風は、格好の船出日和の合図だ。雲もないし、風も波も穏やかだから、安全に難所を越える事ができるだろう。
「お勝ぅぅぅぅ……」
四肢を掴まれてジタバタしている兄上は、滂沱の涙を頬に伝わせ、まるで聞き分けのない駄々っ子のようだった。
衆目の中遠巻きにされているのは猛獣を恐れての事だろうが……これでも兄上は本気で暴れているわけではないのだ。
その気になれば制止など簡単に振り切るだろう。倍の人数がいても止めるのは無理だ。
「お勝ぅぅぅぅぅぅぅっ!」
「……お土産を買ってきますからね」
小山のような大男と、嵩などその半分もない小柄な子供。
立場が逆だと、込み上げてくるのは幸せな「笑い」だ。
前に進もうとする兄上の腕を掴みながら、相方の源九郎もツボに入ったように肩を揺らす。福島家の家臣たちも同様だ。
「お、お勝」
「半月で戻りますから」
宥めるようにそう言い含め、小さな甥が兄上の涙を手ぬぐいで拭っている。
またみぞおちが笑いに震えた。
勝千代殿といると笑いが絶えない。何が凶星だ、何が茨の道だ。この子の本質は善性であり、まっとうで素直な優しい子だ。
京は不穏だと聞くが、一介の地方の武家にはかかわりのないことだろう。下手に駿河遠江にいるよりは安全のはず。
いまだに命を狙われ続けている甥の、子供らしい笑顔を守ってやりたい。
だからこそ兄上も、手元から遠ざける道を選んだのだ。
「お勝ぅぅぅぅぅっ‼」
何とかの一つ覚えのように、愛息の名ばかりを叫んで号泣する兄上に、呆れ半分微笑ましさ半分。小舟に乗って商船に運ばれていくその姿に手を振り返し、ようやく丸太のような腕から手を離した。
「さあ、もういい加減泣くのはやめて。城に戻って軍議です」
志郎衛門兄が声をかけると、兄上は憑き物が落ちたように黙った。
まだ嗚咽のようなものが残っているのは御愛嬌、ぐいと袖で頬を拭って顔を上げた兄上は、既に普段の福島家当主の顔をしていた。
「……うう、お勝」
いや訂正しよう。あの子が絡むと正常な兄上ではなくなる。
未練たらたらで小舟を見送る姿は、後ろ髪を引かれるというよりも、すぐにも海に飛び込んで追っていきそうな雰囲気だった。
「駄目です」
さすがは志郎衛門兄、大兄の未練などばっさり切り捨てて、まだ海の方を見ている巨躯の肩を押した。
「朝比奈殿ら遠江衆が総出で駿府に呼ばれるなど、尋常な事態ではありません、すぐにも軍議をしなければ」
勝千代殿に何も伝えず京に向かわせたのは、もともとその予定があったというのもあるが、国内の情勢がきな臭くなってきたからだ。
勝千代殿にはできるだけ危険から遠い場所にいて欲しい。
そう思うのは一族の総意であり、願いだった。
「誠九郎」
見上げた兄上の目は真っ赤だった。
誠九郎はひゅうひゅうとこぼれる息を吐きながら、ああこれが走馬灯かと思った。
笛のように鳴っているのは首のどこかだ。敵の攻撃を避けたつもりで避け切れていなかったようだ。
死ぬのか。……そうか、死ぬんだな。
恐怖はないが、未練はある。
信濃国境の砦は破られた。取り返さなければならない。いや何よりも、兄上に敗将という泥を塗るような真似をしたままでは逝けない。
だが、どんなに強くそう思っても、もうどうすることもできない。
「誠九郎っ!」
兄上の口が動いて己の名を刻む。
耳はすでにその音は拾わず、代わりにくしゃりと歪んだ表情と、傷口を抑える手が震えている事だけは伝わってきた。
いつかはこんな日が来ると思っていた。
戦場は常に生と死とがせめぎ合う場所であり、ただ単に、誠九郎の順番が回って来ただけだ。
兄上の目は真っ赤だったが、涙は浮かんでいなかった。
勝千代殿の事ではすぐに泣くのに、こういう時には我慢するのだ。
一姫と彦丸君の死を聞いたときもそうだった。
泣き言を言わない兄上の、生まれて初めて聞いた大号泣は、勝千代殿を抱き上げてのものだった。
あの子は、兄上が泣ける唯一の場所なのだ。
ふっと、武骨な指を掴む小さな赤子の手を思い出した。奇跡のように小さく、力強い握り方だった。
馬に乗った。釣りをした。焚火を囲んで話もした。魚も食べた。膝にも乗せた。一緒に兄上を叱りつけもした。
源九郎や兄上とともにいる時間の方がずっと長いのに、思い出すのは小さな甥の事ばかりだ。
ああそうだ、京土産は酒がいいと頼んでいたのに。
誠九郎が最期に思ったのは、生への執着でも未練でもなく、あどけない甥の笑顔だった。




