63-5 駿河 今川館4
こういうシーンを、大河ドラマやニュース番組で見たことがある。
大概は、荘厳なBGMとナレーション付きだ。
もちろんこの時代にそんなものはなく、時折聞こえるのは衣擦れの音。カタリと何かを動かす音。
それ以外は、恐ろしいほどの静寂だった。
もちろん全くの無音だというわけではないのだ。先ほども言ったように、小さな音は時折聞こえている。
それなのに、自身の心臓の鼓動、呼吸の音すら場違いのもののように感じる。
これを、「針の落ちる音すら聞こえそうな静けさ」というのだろう。
室内には立会人が二十名ほど。それ以外にも、回廊の外を含めると無数の見物人の姿が見える。
これだけの人数がいて、これだけの静謐が続くのは異様な光景だ。誰ひとりピクリとも動かない。まるで背景として嵌め込まれた静止画のように。
唯一動いているのは、高座に組まれた巨大な神棚の前に控える東雲だ。
今日は常にも増して真っ白な、神職の装いをしていた。
勝千代は少し離れた位置からそれに向き合い、東雲が細かく三宝の位置を調整したり、榊の向きを整えたりするのを見守っていた。
元服は、この時代において重要な通過儀礼だ。
神前で大人であると名乗りを上げる。それは世間一般でいう成人の儀であり、以降は子供だという言い訳など効かなくなる。
だが勝千代にとって最も大きいのは、この儀式の後には「勝千代」と呼ばれることもなくなるという事だ。
本音を言えば、まだ早い。あと五年は福島勝千代でいたかった。
何より、父を父と呼ぶのを遠慮しなければならないなど、想像もできない。
気持ちは静かに凪ぎ、この先に待ち構えている事に覚悟を決めてもいたが、それでも「嫌だ」「まだ早い」「誰か代わって」という内心の思いを否定しようとは思わなかった。
内心で怖気づくぐらいはいいだろう? 対外的には泣き言ひとつ言わずに、敷かれたレールの上を歩いているのだから。
退路は既になく、勝千代の前には険しい道が続いている。
すべてを投げ出したくとも、その投げたものを受け取ってくれる者がいないのだから、ひとりで背負っていくしかない。
聴覚に異常をきたしたのかと錯覚するほどの静けさの中、無意識のうちに呼吸を数えていた。それが千を超えてようやく、回廊をすり足で歩いてくる音が聞こえてくる。
正直な話をしよう。初見、それが誰かわからなかった。
大きな体躯、毛量の多いもじゃ髭。そんな見慣れた特徴があるにもかかわらず。
何故かというと、普段は自由奔放に散らかっている蓬髪が、きっちりと烏帽子に収まっていたからだ。
もう一つ正直に思った事は……髭も剃ればよかったのに。
いやいや、まじめな話だ。父の正装はそれはもう見事で、実際見ている者たちも口々に感嘆の声を上げている。体格がいいので見栄えがするし、そもそももとの造作も悪くはないのだ。
普段は無地に近い紺色しか着ないのに、今日は大きく派手に目立つ家紋入りの直垂姿だった。
真っ白な襟元と、紺というには鮮やかな青色の直垂。体が大きいのでその分布面積も広く、家紋がくっきりと大きく目立つ。
父……もちろん福島上総介の事だ。勝千代が父と思えるのはこの人だけで、実際は祖父だとか、正式には義父だとか、そんな話はいいのだ。
顔を見て改めて思った。
親子であるということは、形式上、書面上で何かがあったからと言って変わるものではない。父だと思えば父なのだ。それを止められる者はいない。
視線が合って、父も緊張していたのだろう、勝千代がニコリと笑顔を浮かべてようやく、その表情が緩んだ。
寒月様もいらして、加冠の儀が執り行われた。
父はその大きな手にちんまりと三宝を持ち、勝千代用に作られた烏帽子を運んできていた。その傍らには、同じく三宝の上に白い紙で包まれた小刀を乗せた逢坂老が控えている。
まずは前髪を落とす儀式からだ。父は逢坂老が差し出した三宝から小刀を受け取った。
もちろんここできれいに剃りあげるわけではなく、形式的なものだ。
……心配はしていない。うん。
武家の子はそもそもポニーテールのような形状で髪を結んでいることが多いので、古来は髪上げともいわれたそうだが、そのあたりは省略するようだ。
父は、勝千代の前髪の幾らかを切り落とし、それを紙に包んで逢坂老が差し出す箱に入れる。そして、運んできた烏帽子を再び持って、勝千代の背後に回った。
すっと静かに前に歩み出たのは寒月様だ。
勝千代は止めていた息を長く吐き、父がどれぐらい前髪を切ったのかと心配しながら、穏やかな眼差しの白髪の公家を見上げた。
「……ふ」
わ、笑った? 今笑ったよな⁈
それがどういう意味か問いただすことはできず、無意識のうちに父が切り落とした前髪に手を伸ばしていた。
だが大事な部分を確認するより先に、背後に回った父から烏帽子が差し出され、頭上で寒月様がそれを受け取って、勝千代の頭にのせていた。すぽっと。
「よう似合うとる」
絶対に笑ったのは烏帽子をかぶせる前だった!
顎紐を結びながら、励ますように頷くのはやめて欲しい。なんだか泣きたくなってくるじゃないか。
続いて神職である東雲が祝詞を唱え、儀礼らしきものが続いたが、すっかり意識は前髪に向いていた。
鏡、鏡はないのか。
いや今は烏帽子に隠れて見えないのか。これはもしかすると、伸びるまでずっとかぶり続けていなければならないのか? それかいっそ月代を作るか?
厳かな加冠の儀はなおも続いたが、頭の中はその事だけでいっぱいだった。
蛇足になるが、その後の話を少し。
大方様は失意のまま僧籍に入られた。周囲と接触をさせないよう、厳重な見張り付きだ。
桃源院様は生きてはおられるが、年齢的なものもありほとんど寝たきりの状態だ。時折大きな声で御屋形様をお呼びになるそうだ。日々悪夢に苛まれているのかもしれない。
大方様のお子様方については、勝千代にとっては異母兄弟ということにもなるから、普通に兄弟として扱う予定だ。
とはいえ、甘い顔を見せているとこれまでの二の舞になりかねないので、仲良くなり過ぎないようにしている。
今一番気がかりなのは、大勢いすぎる姉妹たちの嫁ぎ先だ。男兄弟については、先に全員養子か僧籍に入ってくれているので助かっている。
今川家は一門衆が弱いので、姉妹の気質をみて国内の有力一族に嫁がせようと考えている。
朝比奈殿がまだ独身なのだが……うん、あそこはデリケートな問題があるから、後回しかな。
勝千代は孫九郎と名乗りを改め、今川家の当主となった。
朝廷にその旨を報告するのは、寒月様にお任せした。
国情が落ち着いてから改めてご挨拶に上洛しなければならないだろうが、いまはそんな余裕はない。
三河のど真ん中を今川家が支配することとなり、挟まれた形の東三河国人衆の扱いが難しい。
松平も、表面上は仲良くしましょう的な態度だが、ひそかに周辺の勢力を支配下に収めつつあり、織田家とも火花を散らしているし、動きが不穏だ。
北条は伊豆を諦めていない。承菊がうまいこと扇動しているせいで、伊豆に入った駿河衆の主だった者たちはまだ伊豆にいる。
彼らの所領だが、その嫡男以外の者に、主として遠江衆の嫁をあてがってみた。
嫁ぐらいと思うだろう? 中御門卿ではないが、次代を考えると悪い手ではないのだ。生まれてくる子供たちは遠江の血を引き、遠江の母から薫陶を受けて育つ。
嫁たちのとりまとめは妙殿に任せている。定期的に嫁の集いなるものをしているようだ。仕組みを作ってみて思ったのだが、けっこう怖いことだぞ。あと十年二十年後が楽しみだ。
吉田城には井伊家が入った。そのほか三河の空き城を任せたのは遠江衆だ。
朝比奈殿には駿東の広い部分を任せることにした。主城は興国寺城だ。北条もそうだが、甲斐の動きにも目を配らなければならない。
朝比奈家がまるっと駿東に移封され、不服が出るのではないかと心配したが、掛川よりもはるかに広い範囲の領土には支城も砦も複数含まれるので、一族的には問題ないようだ。
あのあたりは激戦区だし、水害も多いし、米作に向かないし、人口も多くはない。
だが勝千代の目には、豊かに栄える未来が見える。例えば静岡といえばお茶じゃないかとか、火山灰土なら果樹だろうとか、サツマイモがあればなとか。
街道交易の要所でもあるし、駿河湾は水深があるので大型船を多く船着けできる。
いろいろと手の加え甲斐がありそうな土地だと思う。
父は高天神城を離れて掛川城に移った。主城がそちらに移っただけで、高天神城もまだ福島家の管理下にある。そのうち渋沢に任せようかと話をしているが、今のところ渋沢本人が難色をしめしている。
父が遠江を動かないのには理由があって、信濃の情勢が非常にきな臭いのだ。
源九郎叔父からの知らせによると、内乱は収まる気配がないそうだ。
もともと諍いの多い地域だった。……引っ掻き回した父たちのせいではない。多分。
甲斐との衝突も避けられない雰囲気だそうだし、十分に目を光らせておく必要がある。
そんなこんなで、目まぐるしい日々が続いている。
今川館の掃除もあらかた済み、ようやく文官仕事が滑らかに回り始めた感じだ。
それでも多忙すぎる理由を改善するべく、各国を支配するシステムを再構築しようと模索している。
それらの話は、また後日。
ここでいったん完結させていただきます。
引き続き断章に入ります
よろしくお願い申し上げます




