63-4 駿河 今川館3
公家には公家の流儀がある。だが、武家にそれが通用するとは限らない。いやむしろ、それを突き通そうとしたのが大方様の、いや中御門の敗因だろう。
今川家は東国でも屈指の大国だ。大方様はそこの正室に収まり、嫡男他子供も複数設け、他の追随を許さない権力をその手に握るポジションにいた。
計算外は、次代が育たないうちに御屋形様が病に倒れた事か。
いや年齢差もあるから、そういう事もあり得ると思っていたかもしれないが、家中への影響力を保持したままこれほど長く生きるとは思っていなかったのだろう。
更には妾腹の子の存在だ。まずは勝千代と兄彦丸、玄広恵探も含めると福島系列の男児が三人も立て続けに生まれてしまった。
当時、男児は嫡男ひとりしか生んでいなかった大方様は、焦ったのだと思う。
そのままでよかった。余計な小細工をするべきではなかった。
桃源院様の、嫡男にこだわる意向も追い風になってしまった。
邪魔者は内々に消すというやり方は、思いっきり御屋形様の不信感を煽り、勝千代というイレギュラーの台頭を招いてしまった。
……まあ、結果論だ。
勝千代は大広間の最上座、一段高い畳敷きに胡坐をかいて座っていた。
大広間は更に大きく使うために間仕切りの襖を外され、御屋形様が生きておられた頃にも見たことがないほどの大勢が、固唾をのんで並んで座っている。
その重苦しい沈黙の中、無意識に弄んでいた扇子の音がパチパチと響いている。いかん、みんな静かにしているのに。
勝千代とて最初はおとなしく背筋を伸ばして座っていた。
だが待てど暮らせど呼んだ御方は現れず、疲れてきたのと苛立ちもあった。
脇息に肘を置き、扇子を弄ぶぐらい許してほしい。
皆も足を崩せばいい。もうすぐ待ち続けて一刻(二時間)だ。そろそろもう一度催促してもいいだろうか。
寝殿造りの廊下は部屋をぐるりと囲む作りだ。大広間を囲う廊下は特に広く、奥殿までまっすぐ一直線に続いている。
勝千代の位置から、奥殿は見えない。
だが、襖を取り外され柱だけの状態になった大広間では、奥へと続く回廊が視界に入る者も多い。
その者たちの緊張が、長時間の待ちにも微動だにしなかった空気を揺らした。
勝千代は、やっと来るのかと背筋を伸ばし掛けて、やめた。
どうせゆっくり歩いてくるのだ。姿が見えてから更に十分十五分は待たされる。
「勝千代様」
あくびを噛み殺したところを叱られた。小声だがピシリとそう窘めるのは逢坂老だ。
だが仕方がないだろう。十分十五分ではきかなかった。たっぷり三十分以上掛かっている。
御大層にゆっくりゆったり歩いてくるのは形式美なのだろうが、秒速メートルどころかセンチ単位でしか進んでこないのは勘弁してほしい。
中御門卿が倒れた時には奥から走って来たじゃないか。同じように走れとまでは言わないが……
「おなりでございます」
取り次ぎ役の小姓が、もの凄くほっとした表情で声を張った。
それを受けて、大広間中に待機していた者たちが一斉に頭を下げる。
それに違和感を覚えたのは勝千代だけではないようで、大広間の入り口に立った大方様から怒りのオーラが漂ってきた。
違和感の理由は、頭を下げる角度だ。
最敬礼とは程遠い、軽く頭を下げる程度の礼の取り方は、大方様にとっては屈辱だったのだろう。
「劣り腹の分際で!」
吐き捨てるような、大きな声だった。
それに対して勝千代に思うところはなかった。むしろ、父親を亡くした際の無防備な眼差しを思い出し、複雑な気持ちになった。
だが、その傲慢な態度に腹を立てる者たちもいた。
その主だった者は、居並ぶ遠江国人衆だ。首筋まで真っ赤にして、怒鳴り声を上げる寸前にまで息を吸っている者もいる。最前列にいる天野殿が手を上げて諫めなければ、吸った息を吐く勢いで口々に怒声を発していただろう。
父は常と変わらず平静で、朝比奈殿も無表情を増しただけだ。井伊殿の顔にはむしろ笑みが張り付いている。
勝千代の周辺は誰ひとりとして動かず、だがピリピリとした空気だけが充満していた。
「またそのような減らず口を」
おほほほ、と軽やかな笑い声が、その緊迫した空気を吹き飛ばした。
お付きの女官と思っていた女性が、さっと扇子を広げて口元を覆った。
逆光になって顔までは見えないが、声で八郎殿の奥方だとわかる。
「さあ、お座りなされませ」
きっぱりはっきりした声でそう言って、入り口で立ち尽くしていた大方様の背中を軽く押した。
高貴な身分の方に直接触れるのは、非礼だとされる。それをわからない妙殿ではないだろう。つまりは、彼女の中でもすでに大方様は「そういう」存在なのだ。
押したといっても、軽く、いやそっと触れた程度だ。
それでも大方様は大げさによろめいて、崩れ落ちるようにその場で膝を折った。
丁度日差しが陰って、二人の女性の姿がよく見えるようになった。これまでは逆光で、その表情まではわからなかったのだ。
その場にいた者たちが勝千代と同じ思いなら、「ひえ」と肝を冷やしてるただろう。
真っ白な化粧と濃い紅。公家風なのか眉を剃り、額の高い位置に黒く描いている。
それが京風の化粧なのだろうか。いや、一条の北の方も女房殿も、もっとナチュラルメイクだったぞ。
似合わないと言うのはデリカシーに欠けるのだろう。
この場にいる野郎ども全員が、「見なかった」ことにしようとしたのが分かる。妙な連帯感だ。
「妾にこのような非礼な仕打ちをっ」
「繰り言は結構」
勝千代は、延々と続きそうな怨嗟の声をぶった切り、パチリと扇子を鳴らして閉じた。
御屋形様がお亡くなりになって既にもう一か月を過ぎている。それなのにまだ髪を落とさず、公家の女性のような化粧をして、今川家の女主人のように振舞おうとする。
やりたいことはわかる。だが、謀反を起こした嫡男と、帝の意を受けて討たれた実父の存在をどう思っているのか。
「多くは申し上げる必要ないでしょう。お家を危うくするような御方に、中央に居座られては困ります」
いい加減、待たされ過ぎて苛々していたのもある。
だがこの期に及んでの態度に、呆れ果てたと言ってもいい。
せめて最後ぐらいは、御屋形様の御正室としてそれらしい姿を見せてほしかった。
「おとなしくしておられるのなら、寺で余生を過ごす手はずを整えます。それとも……」
勝千代はもう一度、帝からの下賜品の扇子を開けて閉めた。
手の中で、パチリと気持ちのいい音がする。
「桃源院様と同様に、御自裁なさるというのであればお手伝いいたしますが」
ひゅっと息を飲む音がそこかしこでした。大方様も同様だ。
だが事態を知っている妙殿をはじめとする数名は平常心のままで、それがなお勝千代の言葉に信憑性を持たせていた。
白塗りをしているので、大方様の顔色はわからない。
だが呆然として言葉もなく、ただハクハクと赤い口を開閉している。
御屋形様の葬儀を見届けてから、桃源院様は自決しようとした。
少し前からそんな気配はあったので、刃物は近づけないようにしていたし、その行動に注意を払われてもいた。
故に、割れた湯飲みのかけらしか手に入らず、喉を突いたが傷口はそれほど深くはならなかった。
つまり正確には、自裁しようとしたが死に切れていない。
……だが、それを大方様に教えてやるつもりはない。




