63-3 駿河 今川館2
中御門卿……大方様の父君が、寒月様の兄君の古くからの御友人だと知ったのは、その死の翌日だ。
多くは語られなかったが、寒月様ご自身とも、幼少期から親しい付き合いがあったらしい。
疎遠になったのは、寒月様が土佐に下向された後からで、三十年会っていないうちにすっかり変わってしまったと呟くその表情は寂し気だった。
まるで在りし日を惜しむかのような表情は、すぐに無表情で隠された。
古い知己であろうとも、その罪を受け容れる事などできるはずもない。
うかがい知れないその表情は、聞いてくれるなといっているようで。
勝千代は「そうですか」と静かに相槌を打った。
三十年は長い。ひとりの人間の「人生の大半」と言っても過言ではないほどの、山も谷もある年月だったろう。
何があったのかと想像してみるが、勝千代が知るのは、帝の死に関わっているという口に出すのもはばかられる陰謀についてだけだ。それも漠然としたもので、つまり実際に中御門卿が何をしたのか詳しいことはわからない。
「理解する必要はないと思います」
勝千代はそう言って、並んで座る縁側の先の、美しく整備された庭に目を細めた。
「それぞれの立場によって正義は違うのです」
「……年寄りのような口を利く」
「止めることなどできませんでした。止めようもありませんでした」
三十年間、互いがどこで何をしていたかもわからない。
そんな相手をコントロールするなど、できるわけがないのだ。
「寒月様が気に病む必要はありません」
チチチチと鳥が鳴き、ふたりの視線が同時に空を見る。
じんわりと汗ばむような陽気の、湿度の高い昼間。
細く甲高く鳴く鳥の姿は、軒先からうっすらと雲がかかった空へと消えた。
「燕ですね」
「もうひと月もすれば梅雨入りや」
季節は巡る。人間の感傷など置き去りに、時は刻み続ける。
「お勝」
「はい」
「こうなるやもしれぬと、予想していたと言えばどうする」
抑揚のない囁くような声だった。
勝千代はちらりと傍らに目を向け、変わらず空を見ている白髪の老人の言葉の意味を考えた。
予想していた? そういう傾向が三十年前からあった? あるいは……
「世の中をひっくり返すにはどうすればよいかと、話をした」
おそらくは、控えている護衛や侍従の耳にも届かないほどの小声だった。
「三十年前にですか?」
「いや、それよりも更に十五年は前やの」
四十五年前? 寒月様はお幾つだったのだろう。今の勝千代よりは年かさでも、青年と呼ぶには若かったのではないか。
「父を亡くし、何もかも思うようにいかんかった頃や。ずいぶん厭世的になっておったゆえに、戯言も過激なもんやった」
ああ、これは懺悔か。
つまりは若き日の中御門卿が、年下の子供から聞かされた話を真に受けて、四十五年もたってそれを実行したという事か?
いやいや、いくら厭世的になっていたといっても、寒月様が帝を弑そうと口にするとは思えない。つまり話した内容はこちらだろうな。
「……武家を食う方法を話したのですね」
「そうや」
例えば有力な武家に娘を嫁がせ、その子どもに跡を継がせる? あるいは複数の武家を扇動して将軍位を奪う方法まで考えたのかもしれない。
寒月様ご自身は、京を離れて土佐で力を手に入れた。ほとんど自力で武家と張り合っている。だが中御門卿は……
「よく切れる刀を手にしたもののすべてが、主君の首を後ろから刈ろうとするわけではありません」
ややあって、勝千代は口を開いた。
「その刀で主君を守ろうとする者も、あるいは誤って自身で怪我をしてしまう者もいるでしょう」
たとえ寒月様の原案で今回のすべてが起こったのだとしても、それを責める気にはなれなかった。四十五年も前の事なのだ。
「よく切れる刀に罪があるわけなどありません」
「……やはり其方は年寄りくさいの」
ふっと鼻で笑われた気配がしたが、不服には感じなかった。
中の人が四十路なのは、誰にも知られてはいないが紛れもない事実だ。
だが同時に、自身が幼く頼りなげな子供に見えるのはわかっていた。
子供で良いのだ。少なくとも元服が済むまでは。そんなことを言えるのは今のうちだけだ。
今川家の当主が不在というのは避けたいので、喪中ではあるが吉日をまって加冠の儀を執り行うことになっている。
寒月様は一度京に戻らねばならず、その前にということで今は日程の調整中だ。
中御門家は、傍系が当主に立ち現当主は隠居することになった。表向きは病気療養のためだが、実際は父親同様死を賜るそうだ。
罪が表沙汰にならないのは、公家らしい処罰の仕方だ。表沙汰にならない以上死罪もないわけで、すべてが誰にも知られないうちに闇から闇へ。きれいに掃き清められ、家の名前だけが後世に残る。
気づく者しか気づかない、気づいたとしても真相を知ることもない。
そうやって静かに幕を引くことが、彼らの流儀なのだろう。
「東の宮は、其方の事を随分と褒めておいでや」
「やり取りがおありなのですね」
「筆まめな御方やから」
暗がりで御目通りした際の、かぐわしい香の匂いを思い出した。
次の帝はどのような文字をお書きになるのだろうと気になったが、さすがに見せて欲しいとは言えない。
「公家の仕置きはこちらに任せたらええ」
寒月様の、重々しいが柔らかな口調に、勝千代はひと息ついてからしっかりと頷いた。
「……はい」
それはつまり、武家の仕置きは武家の仕事ということだ。
庭に配備された護衛が動いたのに気づき、そちらに目を向けると、美しく整備された小道から三好殿が近づいてくるのが見えた。何故か東雲と連れ立っている。
最近一緒にいるところをよく見かける。寒月様の御用だそうだが……勝千代が知るべき事なら、そう言ってくれるだろう。
細川の本隊が三河から引き上げたのに三好殿が駿府に居座っている理由は、兵糧と義宗殿の事だけではなく、どうやら寒月様とも関係しているようだ。
阿波細川家の本拠地は現代でいう徳島、一条家は土佐つまり高知だ。御近所なのかまではわからないが、同じ四国の隣国同士ではある。
どうやら帰京するにも三好殿を足に使うようで、勝千代もいささか複雑な……正直に言えば不安なものを感じざるを得ない。
だが老練な寒月様の心配をしている余裕が、勝千代にあるわけではなかった。




