6-3 上京 一条邸 脱出3
棟門から出た瞬間に、むわっと熱気を感じた。
それほど、空気が妙な熱気をまとっていた。
今の季節は春。特に夜間はそれほど熱を感じる時期ではない。むしろひんやりと気持ちの良い冷涼な風が吹き込む頃だ。
空気が熱をはらむほどに、炎の勢いが強いのか。
ごうごうというどこから聞こえてくるのかわからない低周波的な音と、時折聞こえる悲鳴、騎馬や人がバタバタと走りまわる音が聴覚を埋め尽くす。
白玉殿が怯えたように「ひっ」と息を飲む。
勝千代は安心させるために握る手にぎゅっと力を込めた。
当初から計画していた通り、まずは大通りを突っ切ること。それを目標に足を踏み出したが、あまりの人ごみにまっすぐ進むことすらできない。
京の大通りといえば、道幅が広大だ。
白玉殿の足で渡り切れるだろうか。
勝千代が握る手は緊張からか冷たい。
一条邸の大きな門から出てきたのに、誰もこちらを注視してはいなかった。
門前ギリギリまで、かなり大勢の人馬であふれていたからだ。
火から逃れようと人々は逃げまどい、時に足を絡ませて転んだり、走っている者に押されたり、この広さの道路を埋め尽くすほどの人が濁流のようにひしめいている。
これは、襲われることよりも迷子を心配する方が先かもしれない。
そう不安を感じるほどに、守られているはずの勝千代たちの側まで煤で汚れた着物の者が来ている。
それは白玉殿にとっては未知の状況だろう。
だが脱出するには好機だった。
勝千代の真横に、薄紅色の派手な女性用の着物の主が陣取る。
小柄で、白玉殿よりも背が低く、横幅もそれほどない。
最初は女房殿の誰かかと思っていたが、歩き方からして男だろう。
その男に軽く肩がぶつかった。
硬い身体だ。しかも刀を持っている。
白玉殿が足を絡ませ、勝千代を巻き込んで倒れそうになるのを、片腕で引っ張って支える力もある。
「真後ろに追手が来ています」
その男の声が聞こえて、初めて谷だと気づいた。
女性と見まがう小柄さは、なるほど身代わりにうってつけだ。
ちらりと横目で見た谷は、こんな時なのに笑えるほど女装が似合っていた。
目が合って、笑われているとわかったのかムッとした表情になる。
だがその視線がさっと後方に移り、勝千代も笑っている場合ではないと気を引き締めた。
白玉殿を挟んで反対側にいた東雲が、身体をねじって後方を見た。
その表情が硬いのは、追手の姿を目にしたからか。
勝千代はあえて振り返らなかった。
代わりに、ぎゅっと一度白玉殿の手を握ってから、するりと指を解いた。
東雲と目が合って、それだけで伝えたいことは伝わったと思う。
「……あっ」
白玉殿がそう呟く小さな声が聞こえた気がしたが、すぐに人ごみに紛れてわからなくなった。
勝千代は、反対側にいた谷の腕にぎゅうとしがみついた。
女装の上に、頭から派手な衣をかぶっている谷は、さりげなく人波の本流を外れて大通りの反対側に寄る。
一応は寺のある方に向かってはいたが、一条邸の西側の寺院にはすでに大量の避難者が押し寄せており、その門前にたどり着けそうになかった。
「そこの御方!」
若干遠くから、呼び止める声が聞こえた。
男性の声だとわかるが、周囲が騒がしすぎて、そもそも誰を呼んでいるのか定かではない。
さっと谷が薄紅色の打着を深くかぶり、勝千代はその腰にしがみついて顔を伏せた。
そのまま身体を小さくして、人ごみに紛れようとする。
「お待ち下され!」
なおも声掛けが続くが、頑としてそちらを見ない。
ひょい、と足が浮いた。
しがみついた勝千代を、谷が片腕で抱えたのだ。
そして走る。
滑るように、人々の間を縫って走る。
そして、寺の角から横道に入り、更に足早に先へと進む。
谷がどうして人気のない小道を選んだのか、それは、追手の数を見て察した。
十名もいない。
逃げまどう人々の間からその様子を見て取り、果たして白玉殿らから追手は引きはがせたのかと不安になった。
しばらくして谷の足が止まる。
連中を撒いたわけではないのはわかっていた。
少し離れた位置に、直垂姿の武士が並んで道を塞いでいた。
「一条家の御方でしょうか」
何やら確信ありげにそう問われて、勝千代も谷も顔を伏せる。
まだ一条邸から距離が近すぎる。
もう少し時間を稼ぎたい。……どうする?
彼らを倒すのは不可能ではないと思う。双方の間には無関係な人たちがいくらかいるので、お互いの動きが制限されるし、向こうはおそらくこちらを非力な女性と子供だと思って油断している。
谷の腕であれば、この程度の数を退けることは難しくないだろう。
だが問題はそこではない。
勝千代たちがおとりだと気づかれてはならないのだ。
「……ひったくりだ!」
不意に、やけに大きな声が喧噪を突き破るように響いた。
「そっちに向かったぞ!」
え、ひったくり? と思ったのは勝千代だけではないはずだ。
足早に火から逃れようとしていた者たちが、一斉にきょろきょろと周囲を見回し始めた。
誰かがそれとは違う動きをしたのが視界の端に過ったが、そちらに目を向けるより先に、谷が再び勝千代を腕に抱えて駆けだした。
わずかに開いた木戸。
その隙間から見えるのは……弥太郎。
勝千代たちが素早くその隙間に身体を滑り込ませるのと、木戸が閉ざされるのとは同時だった。
そこでは足を止めず、更に移動する。
不意に、目前を行く弥太郎が立ち止まった。
無手だったはずなのに、いつのまにか刀を抜いている。
「あいや、我らは敵ではございませぬ」
聞き覚えがある声だ。先程ひったくりだと叫んだ奴ではないか?
「こちらに。お匿い致します」
そう言って手を振っているのは、二人の男。
松田殿の息子と、中門で東雲と問答をしていた松永青年だった。




