63-2 駿河 今川館1
本音を言えば、福島屋敷に戻りたかった。
まだそこが勝千代の「家」のはずだが、それを口に出すのもはばかられ、わがままは言えないと我慢しながらの帰還だった。
葬儀も終わったことだし、駿府に屋敷を構える者やその縁者は、それぞれの屋敷にもどる流れのはずだが、大多数は行列から外れることなく、長い列は粛々と今川館まで続いた。
勝千代は、それについて何の疑問も抱かないまま、五キロほどの道のりを馬で揺られた。
御屋形様の葬儀の後なのだ、気持ちが沈むのは仕方がないことだ。……いや本当はわかっている、この先に待ち構えていることが、憂鬱でならないのだ。
白桜丸は空気を読んだのか、久々に会う勝千代を見ても興奮する様子は見せず、終始落ち着いた足取りで嘶きもしなかった。
勝千代を取り巻く男たち、朝比奈殿や父や八郎殿、護衛の者たちを含め全員が、行列がゆっくりと進む中、無言のままそっとしておいてくれたのがありがたかった。
見慣れた今川館の門前通りに到着する。
豪華な四つ足門が左右に全開になっているのは、遠くからでもはっきりと見てとれた。
自身のために開かれた大門を見ても、心が浮き立ちはしなかった。
むしろ、ぽっかりと口を開いた伏魔殿へ踏み込まなければならないのだと、憂鬱な気持ちのほうが勝った。
勝千代にとっては、大方様をはじめ、厄介な方々がいる魔窟のような場所だ。
どんなに掃除をしようとしても、気づけばまた汚れが降り積もっている。
御屋形様がこの世を去った今、重しを失った連中がまたぞろ好き勝手し始めるのだろう。
いつまでそれが続くのか。払拭するには大鉈を振るわなければならない。
覚悟を決めて、小さくはない一歩を踏み出す。
敷地内に足を踏み入れた瞬間、これまでのしんみりとしていた空気が変わった。
なんというか、皆が浮足立っている。
大門の内側には出迎えが用意されていたと思うのだが、それどころではない雰囲気で人気もまばらになっていた。
白桜丸がおとなしく足を止めたのは、その緊迫した空気のせいもあるだろうが、見覚えのある皺深い手が轡を抑えたからだ。
「逢坂」
しばらくぶりに見るその顔は、心配していたよりずっと元気そうに見えた。
身体の方はもういいのか……そう尋ねたかったが、私的な会話をしている場合ではない。
何が起こったのかと尋ねようとしたが、言葉が出るより前に、奥からどっとざわめきが起こった。
本殿大広間のある方角だ。
「寒月様が」
逢坂老の早口に、「なんだと」と食い気味に反応し、勝千代は急いで下馬した。
「大方様とその御親族を呼び出されたと聞きました」
続く言葉は聞こえていたが、その意味を理解するには至らなかった。
そこはなおいっそう空気が張り詰めていた。
さながら人を寄せ付けないバリアのように、沈黙が大広間を支配している。
勝千代自身、数歩踏み込んだ位置で足が止まった。
それ以外の者など、大広間をぐるりと一周する敷居にすら近づけずにいる。
しんとした静寂に包まれたその空間に、ひとり佇むのは寒月様だ。
昼間見た束帯姿のままで、手には笏、床には長く裾を引いている。
寒月様が立っているのは、高座より少し手前の板間だった。東雲と、何故かいる三好殿は、寒月様よりも後方、白い裾も届かない位置に片膝をついて控えている。……そう、控えている。
勝千代は、自身もまたその場で膝を折ったほうがいいのかと迷った。
きっとそうするべきだった。武家の子供が顔を上げて立っているのはあまりにも非礼だ。
だが、寒月様の目の前に転がっているのは、どこかで見た事のある坊主頭であり、勝千代とほぼ同時にその場に到着した大方様が、もの凄い勢いで着物の裾を跳ね上げながら駆け寄って来たので、それを制止しなければと身構える意識の方が先に立った。
「おもうさま!」
大方様のかすれた声と、付き従う女官らの息を飲むような悲鳴。
ガタリと音をたてて扇子を落とした大方様は、ばたばたと足音も荒く伏せた坊主頭に駆け寄り、「おもうさま! おもうさま!」と必死にその身体を揺すっている。
勝千代は、予期せぬこの事態に息を飲んだ。
血の臭いがする。それはまあいい。まあいいと思った自身にぎょっとしたのが半分、大方様の「おもうさま」という言葉に血の気が引いたのが半分。
おもうさま……京訛りで父親を表す言葉だ。
大方様の御実家はたしか中御門家。家格としては摂家よりかなり下がるが半家よりは上位の名家。寒月様と同じ権大納言の位を得ていたはず。
見たところ僧形だから、後継に家を任せ、娘のもとへ来ていたのだろう。
勝千代に見覚えがあるという事は、京で見かけたのかもしれない。
一体いつから今川館に? 奥に身を潜めていたのだとしても、妙殿が気づかないわけがないから、最近の事だろう。
京のあの騒ぎで、公家の多くが遠国へ避難した。故に大方様の親族が駿府にいてもおかしくはない。
ただ、かつて権大納言という御身分におられた方が、今川館の大広間で血まみれで息絶えそうになっているとなれば話が違う。
「お勝」
厳しい表情でもがき苦しむ僧形を見下ろしていた寒月様が、腹に響くような低い声で口を開いた。
「朝廷の事情や、知らぬがええ」
小骨が喉に引っかかったような違和感が、寒月様の冷え冷えとした表情により確信に至った。
隠居されていた寒月様がここにいるのは、勝千代の為だけではない。
葬儀に参列したあと、そのまま土方に戻ってもよい刻限だった。わざわざ今川館に寄るとおっしゃったことに、疑問を抱くべきだった。
この御方が動く理由があるとするなら、考えられるのはただ一つ。
暗殺された帝の件だ。
まだ公にはされていない帝の死は、そもそも次期将軍職に関係することが動機の可能性が高い。
一番の容疑者は伊勢殿だった。とはいえ単独では無理だというのは周知の事だ。高位の公卿の誰かが協力者だろうと聞いている。
ふと脳裏に、小生意気な吉祥殿の顔が浮かぶ。あの御方を今川に連れてこようとしていた理由。伊勢殿が最後に義宗殿を連れてここに落ち延びていた理由。
諸々がパズルのようにつながって、一本の線になる。
「内々に処理をした方がよろしいでしょうか」
そう告げた勝千代の声は、内心の動揺と反比例してひどく冷静なものだった。
呆然とした大方様の視線が、泡を吹いている僧形から勝千代に移る。
大きな目だ。むしろキラキラと澄んだ美しい眼差しだ。憎悪を含まないこの方の視線は、年齢の割に酷く幼げに見えた。
何も気づかなかったのか? それとも知っていて今川家を巻き込もうとしたのか?
上総介様よりもずっと覚束ないその表情に、腹の底から怒りが込み上げてくる。
「いいや」
寒月様もまた、淡々とした声で言った。
「すべてこちらで片を付ける」
京訛りははんなりと柔らかいが、その声質がドスの利いた低音では、ただ恐ろしいだけだった。
武家には武家の戦い方がある。
それと同様に、公家には公家の戦い方があるのだと知った。
む、むずかしい
三回も書き直してしまいました
公家サイドで何が起こっていたのかは次の話で説明しています
あくまでも勝千代が聞いた限りの、ふんわりとした内容になりますが




