62-8 遠江 曳馬城4
曳馬城落城から十日。
上総介様は生き延びた。
ただ、自力で歩けるようになるまでには長期間のリハビリが必要だし、もとの身体機能を取り戻すのは難しいそうだ。
それがどういう意味を持つか、本人が一番よく理解しているだろう。
御屋形様が病床にあっても名門武家の当主で居続けることができたのは、過去のとびぬけた実績と、そのカリスマ性についてくる者がいたからだ。
上総介様に同じことは無理だ。
いやそもそも、廃嫡を不服とし、実父である御屋形様に刃を向け、死に至らしめた。要所である曳馬城を焼失させた事も含め、彼が負うべき責任は大きい。
確かにまだ十代半ばにも至らない。少年だ。子供だ。
だが上総介様は既に元服を済ませ、大人として扱われる身だった。
そして、上に立った限りは年齢など関係ない。すべての責任を背負うからこその旗印だ。
枕元に座る勝千代に向ける目は、ひどく穏やかなものだった。
そこに恨みや憎しみなどはなく、むしろ静かな達観が見てとれた。
今川館の思惑に逆らうことなく、側近たちを諫めきれず、老練な御屋形様に上手く誘導された。
後付けで「ああすればよかった」「こうすればよかった」などいくらでも言える。経験不足の少年は、そのどの手段も取る事ができなかった。それがこの結果だ。
上総介様は言い訳ひとつせず、多くも語らず、粛々と罪科を受け容れる姿勢でいる。
勝千代には痛ましく映るその佇まいは、武家として当たり前の覚悟だった。
弱さは罪だ。敗北により何もかも失うのはこの時代の常だ。
下がりきらぬ熱に浮かされた目が、「いつ死ねるのか」と問うてくる。
彼はもはや、自身を今川家の嫡男だとはみなしておらず、無力に横たわる罪人として最期の時を待っていた。
「勝千代様」
薬湯を盆にのせた弥太郎が、ひと言告げてから膝をすすめてきた。
勝千代は書き物をしていた手を止めて顔を上げ、盆に乗っているのが湯飲みだけではない事を見て取る。
「……八雲からです」
手足の長い独特のフォルムの忍びは、河東でかなりの重傷を負ったのではなかったか。それなのにまだ働かせているのか。
申し訳ないという気持ちが表情にも出ていたのだろう、弥太郎はいつもにもまして穏やかな表情で頷いた。
「駿河衆に動揺がみられるそうです」
すっと思考がクリアになった。
無言のまま、湯飲みに添えられた紙を拾い上げた。
かたく結ばれていた形跡のある、細長く折りたたまれた紙だ。中にはびっしりと細かい文字が書かれている。
一通りざっと目を通して、ほっと息を吐いた。
危惧していたような内容ではなく、むしろいい方向に流れが向かっている。
駿河衆の本陣へは、今川館から矢のような帰還の催促が届いているそうだ。
だがしかし、続々と帰還し始めている伊豆衆に手を焼き、更には半島の入り口には北条軍が展開した状態のままでは、戻るに戻れない。
いったん振り上げたこぶしをおさめるのは容易ではなく、更には今川館から届く書簡の内容をにわかには信じることもできず。
御屋形様の死も、上総介様あるいは勝千代の謀反も、曳馬落城も、やけにとりとめもなく現実感の薄い書き方をされていたそうで、これは逆に北条の策略かもしれないと、何度も今川館との間に確認の使者が行きかっているのだとか。
駿河衆が勝千代を討つべく兵を向かわせるとして、まず大前提として伊豆からの完全撤退。北条との和睦。その上で、遠江衆がほとんどを占める井伊殿らの大軍を退けなければならない。
どれをとっても簡単な事ではない。
承菊や関口殿がこの状況を正しく把握できていて、指示通りに勝千代を討とうとしたとしても、「ハイ畏まりました」とフットワーク軽く遠江に駆けつけるなどほぼ不可能だ。
「曳馬から伊豆までどれぐらいかかる?」
勝千代は少し考えて、弥太郎にそう問いかけた。
「急げば二日です」
二日? ……さすがにそれは無理だろう。いや、リレー形式で走らせたら可能なのか?
街道だけを行くわけでないのなら、距離的には百五十キロもないだろう。十人がかりで十五キロのタスキリレーをするさまを想像し、またもブラック過ぎる職務に非常に申し訳ない気持ちになってきた。
「五日かけて良い。確実に届けてくれ」
勝千代は、脇に避けておいた書簡の一通を手元に寄せた。墨が乾いていることを確認してから、丁寧に折りたたむ。
「承菊さまへでしょうか」
「いや」
勝千代は上質な紙でその書簡を覆い、上と下を折りたたんだ。
「駿河衆本陣と、井伊殿へ」
御屋形様の葬儀の日程を知らせる正式な書簡だ。本来なら嫡男でもない勝千代が書くものではないし、忍びが運ぶようなものでもないが、この状況ではやむを得ない。
再び脳裏に、向かいの陣屋で眠る上総介様の顔が浮かぶ。
潔いその覚悟と態度は、いっそ見事なほどだったが、世の中にはそれを是とする者ばかりではない。
そう、今川館の御台様らは、頑なに状況を認めようとはしなかった。それどころか、謀反人勝千代を討てと方々に檄を飛ばしているそうだ。
弥太郎が下がり、室内には護衛の谷と側付きの南だけになって、湯気の立つ薬湯の湯飲みを手に取った。
まだまだ書かなければならない書簡は多い。だが、忙しくして考えないようにしてきたことを、後回しにしてはいけないとわかっている。
「……地ならしか」
御屋形様の最期の御言葉を思い出し、長い溜息を吐いた。




