62-5 遠江 曳馬城1
燃えている。ごうごうと音が聞こえるほどの勢いで、火花を上げて燃え続けている。
町に近づくとはっきりと臭いで火事だとわかり、更に距離を詰めると赤く燃え立つ炎が見える。一キロ近く離れていてわかるほどだから、相当に大きな火柱だ。
城から町までそれなりに距離があるが、火の粉が飛んで延焼しそうな勢いなのが見てとれた。
ここまでくると、火災は災害と同意語だ。
右往左往する城下町の人々も、どうすることもできず唖然とした表情で曳馬城を見ているだけだ。
「……火を消さねば」
呆然とそう呟いたのは藤次郎だ。
勝千代ははっと我に返り、その通りだと大人たちを振り仰いだ。
だがこの時代の火消しとは、隣接する建物を崩し、それ以上の延焼を防ぐ事なのだ。
消火器もなければ、もちろん放水栓もない。いったん燃え上がってしまった炎は、天からの恵みにより鎮火するか、すべてを燃やし尽くすまで止まらない。
吉田城に火をつけた時には、近日に雨があったので建物自体が少し湿っていた。故にそれほど被害が拡大しなかった。だが今は……。
乾いた木が燃える匂いは、燻されるというよりも香ばしい。パチパチと火花が飛び散り、巨大なキャンプファイヤーのように天空高く燃え上がっている。
今切り口から曳馬まで、体感的には四、五キロほど。体力のある父ですら勝千代を抱えての全力疾走で息が上がり、五百の兵のほとんどがすぐには動けず立ち尽くしたままだ。
町人の多くが助けを求める目で見てくるが、現状できる事はほとんどない。
曳馬城にいる者たちは何をしているのだ。
消火は無理でも、町への延焼を防ぐために何らかの手立てを講じるべきではないのか。
とにかく近づけるギリギリ、顔に熱気を感じるところまで距離を詰めた。
これだけごうごうと燃え上がっているのに、大手門ですらまだ固く閉ざされたまま。内側にいるはずの人の声なども聞こえない。
「門をあけよ!」
父が大声でそう命じ、まだ息が上がったままの数人が慌てて駆け出していく。
堀に掛けられた橋を渡り、ガンガンと拳で叩いて声を張るが、内側からの反応はなかった。
とはいえ、守備を固め閉ざされていたわけではなく、脇の勝手口のほうに錠はされていなかったようだ。
橋の手前にいる勝千代の位置からでも、小さな勝手口の向こう側に赤い炎がちらりと見えた。
やがて大きく開け放たれた大手門の向こう側には、土塁や大きな門に隠れて見えなかった惨状が広がっていた。
曳馬城は、四年前からずっと改築が続けられてきた、比較的新しい城だ。
大手門を入ってすぐの部分は敵兵を封じ込める為に長方形の虎口があり、真正面に見えるのはまず高い土塁だ。
その上には漆喰と木でつくられた壁があり、高所から矢を射る造りになっている。
その壁が、すべて燃え落ちていた。いや、「いた」というのは正しい表現ではない。今なお漆喰部分以外のところが激しく燃え盛っており、炎の壁のようになっていると言えば伝わるだろうか。
木造建築における火災は天敵……いや、これ以上ないほど効果的な攻撃手段というべきか。
初期消火がうまくいかなければ、もはや手を付けることなど不可能なのだということが、立ち尽くす大人たちの背中を見るまでもなくわかった。
真っ先に考えたのが、城内にいた者たちの安否だ。
ここまで燃え広がっているのに、まったく騒ぎが起こっていないのは何故だ。
五百人いるはずの武士だけではなく、曳馬城に勤める女中や下男や出入りの者たちもいただろう。彼らはどこに?
単純に大手門側の火の手が強く、反対側に逃れているだけかもしれない。
城には出入り口が複数あるので、一か所だけを見て判断はできないが……いや、基本通路は石と土で固められているから燃えない。四方から炎が出たとしても避難できないということはないだろう。やはりこちら側に誰も逃れて来ないのは、城内で何かが起こっていると考えるべきだ。
ふらりと一歩踏み出した勝千代を、父が引き留めた。
近づくのは危険だというのはわかる。
だが曳馬城の中には御屋形様と上総介様がいるのだ。何もせず見守っているだけというわけにはいかない。
正面から侵入するのが無理ならば、海側からはどうだと、呆然とする勝千代より先に、父が指示を出し始める。
それに待てを出すのには躊躇った。
だが、正解はこちらだという妙な確信があった。
「……入れない事はありません。裏手に回っていては間に合わないかもしれない」
正直な所、この燃え盛る炎の中に踏み込むのも勇気がいる。
奥に行けば行くほど炎が強くなっているのなら、二次被害が起こるだけなのではないか。
「わかった」
だが父は、あらゆる意味で思い切りが良かった。
勝千代の判断を信じてもくれていた。
どこからか水桶が用意され、濡れそぼった小袖を頭からかぶる。
父は、安全な場所で待っていろとは言わなかった。
父の側にいるのが最も安全だという気持ちももちろんあるのだろうが、それよりも、勝千代の意思を尊重してくれたのだと思う。
御屋形様が、この炎の中にいる。
だとすれば、父は直臣として。勝千代は実の息子として。
助けに入らないわけにはいかない。
虎口に踏み込むだけで、確実に周囲の温度が跳ねあがった。
熱いとまではまだ言わないが、炎に面した部分に熱気を感じる。
そんな事を考えていられたのもしばらくの間だけだった。
虎口から燃え盛る二の門に近づき、その真下をくぐる。走って通り過ぎただけだが、頭上からバチバチと木が燃える音がして、火の粉が降り注いできた。
濡れた小袖がジュウと火の粉をはじく音もした。
一人二人は火傷をするのではないか、そう不安に感じるほど炎の勢いが強い。
やはり突入するのは間違いだった。防火服もないのに火災現場に飛び込むなど、自殺行為だ。
勝千代は引き返すよう父に進言しようとした。
だがそれよりも先に、目に入ったものがあまりにも衝撃的過ぎて、言葉より先に悲鳴が口から迸った。
数段高い場所にある回廊。
燃え盛る炎の中でかろうじて形を保っている城の一角に、真っ白な夜着に赤味を帯びた羽織を着た男性。
向かい合うように立つのはひょろりとした痩身の少年。その手にはギラリと炎を照り返す鋼の刀身が握られている。
「やめろ!」
勝千代はとっさに叫んでいた。
同時に、その場にいた全員が大声を張り上げる。
御屋形様がちらりとこちらを見たのが分かった。そして……笑った。
顔の細かい部分など見えるはずもない距離なのに、勝千代の目には、いつまでもその表情が消えずに残った。




