62-4 遠江 遠淡海 今切口側
「いない?」
勝千代には成し遂げなけれならない事があり、三好殿にかまっている余裕はなかった。
すぐにも曳馬城攻略に動かねばならない。城内の詳細を知るために段蔵との合流を待っていた。
だから目を離した。「だから」というのは言い訳だ。だが、そうとしか言いようがない。
「……一体どこへ?」
三好殿とその一行は、知らぬうちに姿を消した。勝千代らと小舟で上陸したのは三十数名。いつのまにかいなくなるというには人数が多い。見失ったと言うよりは、見過ごしてしまったと言うべきだろう。
「申し訳ございません」
悔しそうに唇をかむのは土井だ。
このまま一緒に曳馬城に攻め込むとは思っていなかったから、いなくなったのならいなくなったで構わないのだが、領内を自由にうろつかれるのも困る。
「まあよい。今は放っておけ」
父の言葉に顔を顰める。
和睦を結んだからといって、味方になったわけではないということは、父が一番わかっているはずなのに。
たとえば今川館と手を組んで、いや上総介様のお味方をして……「お勝」苦笑する父を見上げて、良くない方向にむかってしまう思考を引き戻す。
くどくど悩んでも仕方がない。だが正直な所、上総介様よりも三好殿のほうに警戒心が触れるのだ。
「三浦水軍を曳馬城沖から遠ざけてくれた。それだけでも上出来だ」
「それはそうなのですが」
「今は曳馬城のことを考えよ」
「……はい」
わからない事を思い悩んでも仕方がない。
勝千代は気を取り直して、目の前で膝を折る男に意識を集中させた。
「それで……御屋形様は生きておいでなのか」
父の問いかけに、段蔵は一度頭を下げてから顔を上げた。
「城中にかなり御不調だという噂は広がっておりますが、お亡くなりになったという話は出ておりません。奥の間の警備が厳重で、女中や端も出入りを禁じられているほどです」
それでは生死は定かではない。まずはそこがわからなければ先に進めない。
「直接確かめに行けばよい」
なんでもパワープレイで解決しようとする父は、至極簡単な事のように言う。
確かにそれが一番簡単な方法ではある。だが、待ち構えられているに決まっている。
「罠ですよ」
勝千代の言葉に鼻を鳴らす父ならば、そんな小手先の細工などものともしないのかもしれない。
だが、これまでがその方法でうまく行っていたのだとしても、この先もずっとそうとは限らないのだ。
「仕掛けられた罠に引っかかってやる必要はありません」
不服そうな顔をする父に、ではどうするのかという次案を出さなければならない。
今更「命は大切に使ってやれば長持ちする」などと、正論を言っても聞いてもらえるはずはなく、だからといって死地になるかもしれない場所に向かわせるわけにもいかない。
勝千代はどうしようかと考えを巡らせながら、ようやく手放せそうな桶を脇に置いた。
「謀反が起こったのは事実でしょう」
興津があのようなことになったのだから、誤報だということはないだろう。
「ですが結果がどうなったのかはっきりしませんね」
そもそも謀反は成立したのか、防げたのか。
だが、それを確かめるために、直接乗り込むのは得策ではない。
仮に御屋形様の御命が既に亡いのだとしても、誰がそれを是とし、あるいは否とするかわからないのだ。悪い方で考えるなら、遠江の国人衆の中に、上総介様に迎合する勢力がないとも限らない。
「信濃国境に配備していた久野殿が到着するまで三日、三河から朝比奈殿が来るまでに二日。……どうしましょうか」
「曳馬城内にいる者に繋ぎをつけよう」
「その者が謀反を良しとし、上総介様のお味方をしないとは言えません」
「御屋形様に謀反か。そのようなことを受け容れる者がいるものか」
「……そうは思えません」
もともと、御屋形様がお亡くなりになられたら、後を継ぐのは上総介様だというのは周知された事だった。上総介様サイドは廃嫡の件などなかったことにして、すべて良いようにまとめようとするだろう。
ああやはり、御屋形様は既に亡き者にされているとみるべきだろう。
さもなくば、上総介様の御立場が成り立たないからだ。
兵が揃うのを待つべきか、すぐに動くべきか。
やはり皆の意見も、御屋形様の安否よりもその事を重視したものだった。
曳馬城は警備が厳重なようだが、兵の数はせいぜい五百。北条を入れても千。その他の、上総介様に従う兵はまだ集まってきていない。
いやそもそも、上総介様に従う兵がどれぐらいいるのかという話だ。
駿河衆の大半は伊豆だ。今川館がどれほど檄を飛ばしても、二日三日では多くを集める事は出来ない。
勝千代側の兵が揃うまで待ったとしても、全く問題なく曳馬城は落とせるだろう。
そう、御屋形様の事がなければ。
やはり話はそこに行きつき、皆が難しい顔になる。
「申し上げます!」
物見に出していた兵が、転がるようにして駆け寄ってきた。
馬がないので徒歩での伝令だ。
「曳馬城が燃えております!」
円陣を組んでその場に座っていた者たちが、一斉に立ち上がった。
勝千代もまた弾かれたように腰を浮かせ、晴れていれば目視できる曳馬城のある方向に目をこらした。
この時代の城には高さがないので、樹木ひとつない草原にぽつりとあるのでない限り、他の建造物とはっきり判別することはできない。
だが邪魔するものはほとんどないので、煙が立っているのは何となく見てとれた。
何が起こっている?
勝千代の脳裏に浮かんだのは、御屋形様の痩せた青白い顔だ。
ぎゅっと胸の奥が締め付けられ、迷っている間に取り返しがつかない事が起こってしまったのだと確信した。




