62-3 遠州灘2
陸者はお呼びじゃない。餅は餅屋だ。好きにしてくれていい。文句は言わない。任せる、任せる……任せるから!
勝千代の必死の懇願など知りもしない狂人どもが、大きな波のうねりの最高地点に到達したところから、突拍子もない奇声を発し宙を舞った。
いつしか船と船との間にはかぎ爪のようなもので縄が渡され、いくつもの影が海上を飛んでいた。
水軍ってサーカス集団だったのか? 軽業師のような身軽さで、水兵たちが次々と敵船に乗り込んで行く。
その数がまた尋常ではない。漕ぎ手は掛け声をあげつつ艪をこいでいるので、それだけの兵が別にいたということだ。
言い方は悪いが、さながら海賊。一斉に獲物にたかるハイエナか軍隊蟻のようだった。
血しぶきは潮の匂いに紛れ、悲鳴は上がっているのだろうが船の軋みと怒声奇声で聞こえない。
勝千代はまともに立っている事すらできないのに、海賊……もとい、水軍の兵たちは揺れる甲板の上を自在に駆けまわり敵船に乗り込んで行く。
勝千代が知るどんな戦とも違う、狂気的な海上戦だった。
この時代にはまだ火縄銃はない。大砲もない。弓を射るには波が邪魔をし、槍を振り回すには周囲に物が多く足場が悪い。つまり船上での戦いは、軽量級のトリッキーな動きが主流で……いや、これが本当にスタンダードなのか?
はたしてこの状況が一般的なものなのか、阿波水軍特有の狂乱なのか、勝千代には判断がつかなかった。
ただ、陸での戦いとはあまりにも違う。まったく別の技能が必要な事だけは確かだ。
陸では歴戦の強者でも、海の上では何かにつかまって揺れを凌ぐしかない。当然だ。それが普通だ。
父ですらその場を動かず、這いつくばっている勝千代の真後ろに立ち、敵を寄せ付けまいと刀を振るだけだ。
基本的には混戦だ。見ていると、波が高いときに低い位置にいる敵に切りかかるのがセオリーのようだ。つまり攻撃には波があり、その方向やタイミングが計りやすいという事でもある。
勝千代の周囲の者たちも幾度目かにそれを察知したらしく、たまに乗り込んでくる敵兵を蹴散らし甲板を守っている。
「火がついたぞ! 綱を切れっ! 切り離せ‼」
見えないどこか上の方から、誰かがそう指示を飛ばした。
同時に陣太鼓のようなものがドンドンと鳴る。
撤退の合図か。阿波水軍の兵たちが波が引くように戻ってくる。
まだ味方が完全に戻っていないうちから次々と綱が切られていく。火が出ているというが、勝千代の居るところからはわからない。ただ、油が燃えるような独特の匂いがした。
安宅船は大きい。人が蹴ったぐらいでびくともするものではない。
だが水兵たちが綱を伝って戻りつつ、同時に船壁を蹴りつけると、波の助けを借りて綱は切れ二つの船の間に距離が開いた。
そしていつの間にか、松明のようにメインポールが燃えている船が、視界に収まる大きさにまで遠ざかっていた。接敵してからの時間はおそらく三十分弱。あり得ないほどのスピード勝負だった。
……いや、すごい。圧巻だ。
エイエイオーの鬨の声ではなく、「ヒャッハー! ヨーイ!」という世紀末的掛け声があちらこちらから聞こえてきたのがいつまでも耳に残った。
「いやあ潮目に恵まれ申した!」
ほくほく顔でそう言うのは三好殿。次からは海賊の頭目と呼んでやろうか。
いやこの男は陸での戦いでも名将だった。できるヤツというのはオールマイティに何でもこなすという事だろう。
相変わらず船は大きく波に揉まれている。抱えていた桶をひっくり返さなかっただけでも自分を褒めてやりたい。
勝千代は、意気揚々と勝利の雄たけびを上げている水兵たちに、引きつった笑みを浮かべた。
あとでラム酒……ではなく濁り酒でも差し入れよう。よくやってくれたのは事実だ。
三浦水軍の五隻を退けた。その中に北条兵はいなかったそうだ。
兵はおらずとも、長綱殿が乗っていた可能性はある。
後々の事を思えば海の藻屑と化していて欲しいが、それよりも重要なのは、いまだ北条兵五百が遠江にいるということだ。
逃走する足は潰した。船で逃げる道を塞げば、駿河を通るか、三河へ抜けるか。どちらにせよ今川軍が目を光らせている地域なので、簡単には退けないだろう。
目をあけてもいられないほど必死の思いで小舟に乗り換え、今切口から浜名湖……この時代でいう遠淡海に漕ぎ入れた。一気に波が穏やかになり、心の底からほっとしたのは勝千代だけではないだろう。
吐き気はすぐには収まらない。桶は相変わらず心の友だ。それでも、揺れが少なくなれば周囲を見る余裕も出来てきて、気持ちも落ち着いてくる。
船で運んだ五百の兵は、半数近くが勝千代と変わらない土気色の顔をしていたが、一人も欠けていなかった。
もう二度と船には乗らないと決意を固めている者は多そうだが、早くとも二日は掛かる行程を数時間にショートカットできるのだから、有用な移動手段だ。
「……何故三好殿も下船を?」
安宅船に戻っていく小舟を見送っていた三好殿が、くるりとこちらを振り返った。
三好殿は、先だってのように見事な造りの鎧兜は身にまとっていない。一見すると無冠の武士……とまではいかないが、小国の領主かその家臣のような身なりをしている。
「満潮時にならねば今切り口に着ける事は出来ぬようで」
いや、大きな船を遠浅の浜に直接着岸させるのは無理だろう。そもそも遠淡海に安宅船が入れるのなら、もっと活用されているはずだ。いや奥の方なら可能なのか?
「引き返すか、あるいは清水まで行かれる方がよいのでは」
まるっきり物見遊山な雰囲気の三好殿に、顔を顰めたくなっても仕方がないだろう。
「兵糧を積まねばならぬゆえ」
……ああそうだった。駄賃に兵糧を渡す約束だった。あれだけの働きをしてくれたのだから、約定よりもはずまなければ。
「それならばやはり清水湊です。無理をして今切口を抜けようとして、浜に乗り上げては目も当てられません」
「うちの船乗りどもは腕が良い」
「それでも、干潮になって身動きがとれぬようではお困りでしょう」
三好殿は「ふむ」といって、顎を擦った。
やけに軽く明るい表情だ。あの時の陰鬱な雰囲気は、対管領殿限定だったのだろうか。
そうでなくとも、元来こういう明朗な気質の男なのだろう。
ふと好意的に見ている自身に気づいて、いかんいかんと気を引き締める。
この男は、決して油断してはいけない相手だ。
「我らはしばらく忙しくなります」
物見遊山の相手は出来ないときっぱり告げた。
そうとも、勝千代にはこれからやるべきことがある。
毅然としてそう言ったつもりだが、手には酸っぱい臭いのする桶を抱きしめたままだ。
……締まらないな。
そう思い、自然と眉尻が下がった。




