62-2 遠州灘1
いや、そんな気はしていたのだ。
勝千代は桶をしっかりと両腕に抱え、安宅船の揺れに耐えていた。
「遠くを見ると多少は楽ですぞ」
そう言って、もの凄い笑顔なのは三好殿だ。
気のせいではない、細川水軍からの生暖かい視線が辛い。
仕方がないだろう、体質だ。馬にさえ酔うのだ、船酔いしないわけがない。
前回京に向かうために乗ったときにはそれほど酔わなかった。商船だということで航行が安定していたのか、運よく海が凪いでいたのか。
故にかなり楽観していた部分はある。堺港までは数日かかったが、今切までは風さえつかめば数刻と聞いていたし。
勝千代は抗議する気力すら持てずに、またも込み上げてきた胃液を桶にリバースした。
「吐きたいだけ吐けば楽になるぞ」
暴れ馬を平気で乗りこなす父は、荒波に揉まれる船にも平気のようだった。
桶を抱えた勝千代の背中をずっと撫でてくれていて、巨大な身体を折り曲げ心配そうにしている。
ざぶん、ざぶんと波の音がするたびに、船は大きく上下左右に揺れる。
そのたびに、勝千代同様桶と仲良くしている者たちが、吐き戻している音がそこかしこから聞こえる。
海の上では、陸者は役に立たない。水軍が圧勝すると言うのも頷ける。
百人中百人が酔うというわけではないが、二割は確実に桶を手放せなくなる。全軍の二割というのは撤退を考えたくなる数だ。
「眠れるようなら横になられるとよい」
楽しそうな三好殿に、ずっと付きまとっていた暗さはない。
子供が船酔いに苦しんでいる姿がそんなに楽しいのか。……楽しいんだろうな。
勝千代は吐き気の波の合間に、恨みを込めて三好殿を見上げた。
いや、三好殿が悪いわけではない。悪いわけではないが……
勝千代は何も言い返せないまま、自身の顔がすっぽりと嵌るサイズの桶に再び覆いかぶさった。
どう動くか決めた後、迅速に物事が進むのはトップダウンの強みだ。
最初、勝千代が持ち込んだ話に乗り気ではない様子だったが、兵糧の追加を倍にすると言えばコロッと状況が変わった。
すでにもう陸の補給路が復旧しているはずだが、一万の兵の一日当たりの掛かりを考えると、あながち的外れな提案でもなかったのだろう。
三好殿からの条件はみっつ。船の運用には口を出さないこと。天候や波の具合によっては引き返す権利。運べる今川軍の兵はきっかり五百人。
それさえ確約するならば、喜んで船は出そうとの事だ。
「喜んで」というところにかなりの引っかかりは感じる。だが、残りの兵を三河に残して、三好殿本人も同行すると言われてしまえば、信用せざるを得ない。
この時代、太平洋側の荒れた海を主戦場にしている水軍はいない。船底が平らな安宅舟では、時化の高波を凌ぐことが難しいのだ。
水軍を保有している家はちらほらいるが、大抵は瀬戸内海や伊勢湾などの波が穏やかな範囲内に勢力をとどめている。
だからといって、太平洋に出ることが不可能というわけではない。
現に堺衆の船は清水湊まで来ているし、阿波水軍も難所中の難所である紀伊半島を越えて三河湾まで兵糧を運んできた。
もちろん、天候の良い日を選んでの事だろうし、海図や潮流の知識を豊富に備えた船乗りがいてこそ可能なのだろうが。
つまり、勝千代の手が届く範囲に熟練した阿波水軍がいたのは幸運だったと言える。もちろん、彼らの協力を得る事ができたのも。
「いやあ、よき風。よき波。気持ちの良い航海日和ですな」
ご機嫌で笑う三好殿が、海が好きだというのだけはよくわかった。
……本当に何故この男が一緒に来ているのだろう。
勝千代の本当の狙いが、兵を運ぶことそのものではなく、対三浦水軍だというのは察しているだろうに。
自国とはかかわりのない戦に首を突っ込む理由が兵糧以外にも何かあるのか?
「あの御方を直接引き取りに行くのも悪くはありますまい」
わざとらしくそんな事を言う男が、本音では何を考えているのか理解できない。
そもそも義宗殿がいるのは駿府で、今回の目的地までの倍以上の距離があるのに。
確かに、阿波細川軍とは起請文を交わして和睦した。
だからといって、数日前まで血で血を洗う戦を繰り広げていたことには違いなく、昨日の敵は今日の友と笑いあえるほど単純なことではない。
百パーセント信頼がおけるかと問われると、正直者の善人でも首を傾げたくなるだろう。
そんな彼らを使って、北条の策を封じようとしている勝千代に言える事ではないのだが。
三河湾を出て、一気に波が高くなった気がしたが、渥美半島を抜けた先は更に揺れた。
揺れた、というのは控えめな表現だ。波のうねり、上下の振幅がやたらと広い。波の高い部分から低い部分への落差はもはやウォータースライダー並みだし、風で帆柱があり得ない角度にまで傾いている。
渥美半島ギリギリのところを通り抜け、たった数分もしないうちに波が船酔いする者を量産した。
この状況であとどれぐらいかかるのだろう。到着してもまともに戦えるだろうか。
太平洋に出て一瞬で船という手段を後悔したし、この状態を「いい風いい波」だとは到底思えなかった。
「前方帆影!」
確かに聞こえたその声に、身構える事ができたのは酔いとは無縁の者たちだけだ。
桶と片時も離れる事ができない身としては、顔を上げるのが精いっぱいだった。
安宅船はいわゆるガレー船だ。帆走もするが細かい動きは艪を使う。
視認の声がかかると同時に、船腹のほうから威勢の良い呼応がして、ギシギシと木が軋む音がリズミカルに続いた。
遠州灘は黒潮の流れがあるので、北上するには早さも出て楽なはずだ。おそらく艪で細かく方向を調整しているのだろう。
体感できるほど急激に船体が向きを変えた。
そこから先は、接敵するまであっという間だった。
……ああ、確かに「いい風いい波」なのかもしれない。




