61-8 東三河 吉田城 覚悟
青白く死人のような顔をした興津が、臥所で目を閉じている。
呼吸はわからないほどに浅く、横たわった身体はピクリとも動かない。ひと目で厳しい容体なのは見てとれた。
縋るように弥太郎を見ると、小さく首を横に振られた。
それはどういう意味だ。もう手の施しようがないということか?
責める言葉を飲み込むのが精いっぱいだった。
あの苦しい戦いを生き延びて、こんなところで死ぬのか。
ぎゅうと胸が締め付けられた。
大勢の死を目の当たりにし、死などもはや日常、慣れたとすら思っていたが、己の心構えが全くできていない事に気づかされた。
「切り付けられた腕の傷が深く、長時間止血し続けたのでしょう」
胸の上に置かれた右手は真っ黒に変色し、見るからに壊死し始めている。
「腕を落とせばあるいは」
勝千代は、単調な口調でそういう弥太郎に視線を戻した。
それで生き延びる事ができるのなら。そう言おうとしたが、「お勝」と父が制止の声を上げた。
父の言いたいことはわかる。その他の者たちも同意見なのは、顔を見ればわかる。
武士の右腕だ。つまり、永遠に刀を握れなくなることを示す。
それでも生きていて欲しい、生きる為に戦って欲しい。そう思うのはエゴだろうか。
勘助を見ろ。片目どころか片足すらない。それでもしぶとく生きているじゃないか。
「勝千代殿」
やけにしっかりとした声に名を呼ばれた。
はっと横たわる興津を見下ろすと、ありありと死相の浮かんだその顔の、開いた目だけが強い輝きを放って勝千代を見ていた。
「御屋形様からの御伝言です」
耳を塞ぎたいのにできず、息を吸う事すらできない。興津の、そこだけギラギラと生気のある双眸から目がそらせない。
「道は示した。地ならしは己でせよ」
知らない。そんなことは知らない。
無言で首を振る勝千代の目の前で、興津がふっと目を細め、柔らかな息を吐いた。
それが最期だった。
「曳馬城には北条兵五百と上総介様を仰ぐ者たち五百、合わせて千ほどがいるようです」
そう言ったのは朝比奈殿だ。
勝千代はぎゅっと目を閉じて、こぼれそうになる涙をこらえていた。
油断したら今にも感情が溢れてしまいそうだ。誰に向ければいいのかわからない激情が、苦しいほどに胸の中で暴れている。
「北条か」
父の声の平常さが、「はい」と答える朝比奈殿の淡々とした口調が、目の前で興津が死んだことなど些事だと言っているようで。
そんなはずはないのに、怒りの矛先が向いてしまいそうになる。
「御屋形様はおそらく、こうなる事を見越しておられたのでしょう」
「……ああ、そうだろうな」
「そんな」
勝千代の呆然としたつぶやきは、自身の耳にもひどく狼狽して聞こえた。
よりにもよって北条兵を使っての謀反を予期していたというのか?
ならば何故それを防ごうとしなかった。上総介様の逆心に気づいていたのなら、曳馬城に出向くべきではなかった。わざわざその身を晒すなど、きっかけを作るようなものではないか。せめて高天神城から離れずにいてくれたら……
「上総介様に、いったん廃嫡する旨をお知らせに上がったとき、来るべきものが来たとむしろ清々しい表情をなさっておいででしたが」
「廃嫡⁉」
勝千代はぎょっとした。
朝比奈殿が単身で曳馬城へ向かったのは記憶に新しいが、御屋形様の指示書を届けただけだと思っていた。いや正確にはそれしか聞いていなかった。
譜代の重臣に切りかかるほどの内容ではないと感じていたが、やはりそうか。原因はどう考えても廃嫡の知らせだ。
「御屋形様はどうして煽るような真似を」
「今川家を継ぐにふさわしい後継がどちらか、見極めようとなさっておいででした」
本当なのか、嘘だと言ってくれ。
そう懇願しつつ凝視しても、朝比奈殿は表情を変えない。
「何故ですか」
「御屋形様の御意向です」
「……何故ですか!」
詰め寄ろうとした勝千代に向かって、朝比奈殿はそれを拒絶するかのように、床に両手を付き頭を下げた。
「機会は平等に与えられ、御屋形様はご選択なさいました」
「選択?」
「覚えておられますか、今川館で」
とっさに言われていることの意味が分からず、言葉に詰まる。
「立たれますかとお伺いいたしました」
急激に、駿府福島屋敷での記憶が蘇ってくる。
確かに朝比奈殿にそう問われた。だがそれは、今川館が伊勢殿の手中に落ちたと思ったからだ。
こちらに連中を凌駕する兵力があったため、それほど苦労もなく取り戻せたのだが……あの時勝千代は何と答えた?
「御屋形様ご自身、上総介様と似た御立場でいらっしゃいました。御家が割れるという事の意味を誰よりも御存知です」
「……だからといって」
「覚悟を持って立つ事ができない者に、今川家を任せる事は出来ない」
勝千代は、胸の中の柔らかな部分をえぐられたような気がして息を飲んだ。
「曳馬城で、上総介様にお伝えいたした御言葉です」
覚悟など、十代前半の子供に期待するのが間違っている。
そう言いたかった。
だが、他ならぬ勝千代の存在が御屋形様にその選択をさせ、あの気弱そうな上総介様に取り返しのつかない道を選ばせたのだ。
堪えても堪えきれない呻き声がこぼれた。
凡庸かもしれないが正当な嫡男を廃してまで、勝千代を選ぶと明言した御屋形様に、物申したい気持ちでいっぱいになる。
「……まずは御屋形様の安否を確かめねばなりません」
生きているだろうか。殺されてしまっただろうか。
勝千代は、おそらく後者だと心の中の防御を固めながら、ようやく言葉をひねり出して言った。




