61-7 東三河 吉田城 戦後処理3
阿波細川軍の完全撤退は三日では終わらなかった。
実務担当者が申し訳なさそうに言うには、思いのほか負傷者が多く、すべてを三河の外に運び出すにはもう少し時間が掛かるそうだ。
仕方がないので、豊川の東側から移動してくれるならしばらくはどうぞと許可を出した。
事情が事情だけに無下にはできないというのもあったが、川を隔てた下流の方は今川家が直接支配する領域にはないというのももちろんある。
吉田城および豊川より東側にある城と、西側にあるがかつては牧野氏のものだった城はすべて引き渡された。
空き家になった城には、余計な事を考える者が出て来ないうちに、予定通りの者を入らせた。
牧野家の城もあれば、その麾下にあった者の城もあり、別の国人領主が治めてきた城もある。しれっと己の城だと主張する者が出てきそうなので、御屋形様の認可を待たず先に住人を決めたのだ。
今のところ、日和見をした連中の事は無視している。
今川に援軍を出し、それでも城を失った者たちについては個別対応。
こちらに味方をせずに攻め落とされた城については、あたり前だが空き家になった瞬間から今川家の旗を掛けた。しばらくは直轄扱いにして、問題がなさそうならば誰かに任せることになるだろう。
一気に今川家の支配領域が広がった。
日和見をした連中は、前後を今川家に挟まれ気が気ではないだろう。
豊川を挟んだ地域の、細川に従った者たちも同様だ。
「なんとか形になりましたな」
ほっとしたようにそう言うのは、幾日も勝千代に付き合ってくれた天野殿だ。
吉田城に移ってからも山積みの仕事は終わらず、トータルすると五日目だ。もちろん休憩や睡眠は挟んだが、それ以外のほとんどを執務に当てたと言ってもいい。
燃え尽きた勝千代が無言のままでいると、天野殿は無精ひげの浮いた長い顎をするりと撫でた。あくびを隠すためだな、わかるよ。
勘助? 目の前でいびきをかいて寝ている。藤次郎ですら頭がふらふらと揺れているのだから、全員の疲労困憊ぶりがわかるだろう。
ともあれ、一通りの戦後処理は終わった。
もう寝てもいいだろうか。丸一日でも眠れそうだ。
「勝千代様!」
……わかってた。そうは問屋が卸さない。いや卸してくれない。今度は何だ。
だだだだだと近づいてくる足音と、その大声に、皆の顔が死んだような真顔になる。
二の丸にしつらえた執務室に駆け込んできたのは、白湯を取りに行っていた土井だ。
「興津様がお戻りです!」
がばっと勘助が起き上がった。
その表情がやけに険しかったので、つられて緊張してしまったが、よく考えればそれほどの事でもない。
興津は御屋形様への報告の為、曳馬城に戻っていたのだ。
まだ警戒が必要なので、多くの兵を割くわけにはいかず、五人ほどでの帰還だった。
土井の声が大きいのはいつもの事だし、勘助が渋い顔をしているのも常態だ。一瞬跳ねた心臓を宥め「トラブルはない」と思おうとしたのだが、勝千代の前で両手を付いた土井の、その表情を見てぎゅっとみぞおち辺りが固くなった。
「急ぎおいでください、興津殿は動ける状態ではありません」
目を固く閉じ、一秒。勝千代は感情に蓋をしながら瞼を上げ、土井の青い顔をまっすぐに見た。
「深手か」
「息があるのが不思議なほどのようです」
部屋の隅に控えていた弥太郎が立ち上がった。その姿が、音もなく廊下の方へ消えるのを見送って、もう一度口を開く。
「他には」
「上総介さま御謀反」
潜めた声のその言葉に、すうっと顔から血の気が引くのが分かった。
まだ三好殿は三河にいる。いやもし細川軍が完全撤退したとしても、ここから今川軍が兵を退くわけにはいかない。……いや、本当にそうか?
いろいろな事を考えながら廊下を走る。
すれ違う者全員が驚愕の表情で勝千代を見る。誰に二度見されようとも構わなかった。
廊下を回ったところで、巨大な壁に正面衝突しそうになった。
のけ反り回避しようとするより早く、ひょいと両脇に手を差し込まれて足が浮く。
「ち、ちちう」
「落ち着け」
そういう父の声は低く、大型獣が威嚇しているかのようだったが、表情は少し強張っている程度だった。
「何事もないように振舞え」
勝千代ははっとした。呼気がひどく荒いことを自覚し、大きく息を吸いこむ。
ごほごほと咳き込む羽目になったが、おかげで脳に酸素が行き渡り、混乱が収まってきた。
「……落ち着きました。下ろしてください」
父は勝千代の目をじっと覗き込んでから、大きくひとつ頷いた。
そっと足が床につく。両方の足でそのひんやりとした板目の感触を踏みしめて、改めて父を見上げた。
「お聞きになられましたか」
「まだ判断を下すのは早い」
「時機を逸するわけには参りません」
「もしまことに事が起こったのなら、今更動いても遅い」
冷静な判断だ。だが言葉とは裏腹に、その声は恫喝するかのように低く重い。
ここから曳馬城まで、単騎駆けでも丸一日はかかる。軍を引き連れて行くならその三倍は見ておくべきだろう。
ああ確かに、三日後など何もかも終わった後だ。
興津が戻ってくるまでの一日を合わせると最短でも四日、あるいは五日も前の出来事になるのだ。
かといって、何もしないわけにはいかない。
謀反が成っているのだとすれば、上総介様は次に勝千代を排除しようとするだろう。
「お勝」
父は、腹に響く低い声で、勝千代の名を呼んだ。
返事をしようとしたが、そのあまりにも強い、今にも食い殺してきそうな表情に声が出なかった。
「……覚悟を決めよ」
何の覚悟だ。
とっさに「嫌だ」と口を突いて出そうになったが、飲み込んだ。




