61-5 東三河 石巻城 戦後処理1
京兆家の本陣で、結局のところ何が起こったのか。
特に知りたいとは思わなかったが、管領殿の行く末だけは確認しておく必要があった。
結論、生きてはいる。
だがそれを本当の意味での生存と言ってもいいかは、特に本人には思うところがあるだろう。
管領殿は軍議の真っ最中、大勢の配下の前で倒れたそうだ。
しかも間の悪いことに、阿波軍との決戦の直前だった。
ひどく士気が低く、早々に戦線離脱した者たちが多いのは、そのあたりにも原因があるのだろう。
とにかく管領殿は阿波軍の総攻撃前には意識を失くしており、それゆえに典厩家の弥九郎殿が陣代を務めたというわけだ。
医者の見解によると卒中らしい。いつかは回復することもあるのかもしれないが、現状は自力で手足を動かすことすら難しいようだ。
管領殿は戦が始まるより前に豊川を渡り安全圏にいた。いくら川の東側を探しても見つけられないはずだ。
それについて三好殿がどう考えるかはわからないが、少なくとも追手を掛ける気はないようだった。
寝たきりの病人に鞭打っても仕方がないということだろうか。
……あっさり殺してしまうのはもったいないと思っていそうな気もするが。
「……選べ」
石巻城、本丸居室。
勝千代がそう言ったのは、相変わらず渋い表情の勘助だ。
義足を前に投げ出すようにして座っているその前には、「吉野勘助」「大林勘助」の二種類の名前を書いた紙がある。
吉野は駿河衆である実父の姓、大林は既にこの世にはいない牧野家家老の姓だ。
「大林を選ぶのなら、三河で城持ちになれるよう口を利いてやる」
そう言った瞬間、勘助の表情が驚愕に歪んだ。
もともと牧野家筆頭家老の嫡男として育てられたのだから、あながち無理な筋ではない。
「吉野を選ぶのなら、福島家の正式な家臣として禄をやる」
今、勝千代が苦慮しているのは、荒れ果てた東三河の処遇だ。
細川勢が蹂躙した城の多くが空いているのだ。
この機に乗じる者は絶対に出てくる。
特に気になっているのは、日和見をして兵を出さなかった東三河国人衆と、戦の混乱に乗じ、しれっと自身の城に逃げ帰った領主たち、それから西三河の松平家だ。
松平の翁は織田の砦をいくつか奪い、本格的に尾張と事をかまえる寸前なのだが、本音では尾張よりも、がら空き状態の三河に食指を伸ばしたいはず。
今は勝千代ら今川軍がいるから静かにしているが、帰還してしまうとたちまちあちらこちらで兵が起きるだろう。
「豊川より東は、勝千代様が治められると思うておりましたが」
「とりあえずは」
実際どういう仕置きになるかわからないが、今回の戦功報酬のほとんどが、このあたりの土地という事になると思う。
「だが一度曳馬に戻り、御屋形様の御意向をお伺いしてくる」
勝千代が勝手にできる事ではないので、形だけ整えて御屋形様の許可を頂くという形になるだろう。
ちなみにこの時代、東三河西三河という名称は存在しない。
東側と西側に大きな勢力があって、その境目になるのがちょうど豊川付近、だから一応言葉として通じはするが、東三河の国人衆などとひとくくりにはできないそうだ。
そのなかでも最大勢力のひとつである牧野家が滅亡したので、その部分が大きく空き家になった。領地内にはいくつかの城があり、そのうちのひとつを勘助に任せようとしたのだ。
この場合、任せると言うのは城ではなく、その城が支配する周囲の土地をも含む。
故に、例えば吉田城に朝比奈殿が入ることになったとしても、勘助がその禄を食むわけではなく、独立した小国の国人領主という扱いになる。
ちなみに、福島家の家臣になってもたいしていいことはない。
「残念ながら吉田城とまではいかぬが、このあたりの城なら……」
勝千代が隣に置いた東三河の地図を指し示しながら言うと、「いや」と勘助が相変わらずの渋い表情で首を振った。
「どちらの名も遠慮させて頂きます」
勝千代はちらりと勘助の顔を見て、「そうか」と息を吐いた。
今回、数多くの軍略で成果を上げたのは誰の目にも明らかだろう。その報酬を要らぬと言うのなら、もしかすると自由の身を欲しているのかもしれない。
だがそれが叶うだろうか。
「大林も吉野も御免にございます」
一番近いのが大林と名乗り、城持ちになることだ。それでも今川家の臣であることには違いない。長年拘束し続けられていた場所からは離れたいのかもしれない。
「別の名でお願いします。たとえば……山本とか」
……ではなく、名前の方のダメ出し⁉
勝千代はとっさに反応に困った。
「や、やまもと?」
予期しないところからガツンときた衝撃に、無意識のうちに声が震えた。
勘助が不審そうな表情で首を傾ける。
「いけませぬか、生まれ故郷の村の名です」
「それなら吉野でいいのではないか」
思いっきり食い気味にそう言ってしまったのは、勘助が上げた名に心当たりがあったからだ。
歴史の知識がないとはいえ、さすがに稀代の軍師「山本勘助」の名は知っている。
そういえば、山本勘助は異相だったと伝わっている。今川家で仕官できずに武田で拾われたと聞いた気もする。
えっ、なに? じゃあ本当に山本勘助なの? 本人? 本人!?
「今更生きていると聞かされても吉野家は困るでしょう」
勘助はそう言って、頭を抱えた勝千代に不思議そうな目を向けた。
「山本ではいけませぬか、それでは牛窪とか」
こちらは、三河におけるゆかりのある地名だそうだ。
どちらにせよ、福島家の禄を食むという方向性に迷いはないらしい。
勝千代は内心で震えながら背後にある硯と紙にむかった。
言い出した勝千代のほうが慄いているとは、当の本人は思いもしないだろう。
三つ目の名前を大きく書き記し、その強いインパクトに眩暈を堪える。
―――山本勘助
そう書かれた紙を渡すと、傷だらけの顔がやけに満足そうに歪んだ。
あるべき名がきちんと付けられた。そうとしか見えなかった。




