61-1 東三河 吉田城周辺 決戦1
たくさんの「おめでとう」「予約しました」の御言葉、本当にありがとうございます。うれしいです。
これからもまだ勝千代のお話は続きますので、今後ともよろしくお願いします。
「これはすごい」
勝千代は思わず呟いたが、誰からの同意も返ってこなかった。
その場にいる全員が、ふたつの軍勢の衝突を、食い入るように見守っている。
動員されている兵数は、パッと見ただけでは把握できない。おそらく二万まではいかないと思う。
三河で大幅に削られたせいか、もともと三万よりも少なかったのかは定かではない。
対峙する両細川軍の兵力に、それほどの差はないように見えた。にもかかわらず、ここまではっきりと優劣がわかれるものだとは。
言葉にすると簡単だ。二つの勢力が正面からぶつかり合い、片方があっけなく崩れた。
吉田城の南側、川沿いに東方面に突き進むのは阿波細川軍、中央を突破され慌てふためく京兆軍。
敵と戦おうという気概のある阿波軍はともかく、たった一瞬接敵しただけで崩れた京兆軍の士気の低さは、遠くからでもわかるほどだ。
兵糧がかろうじてでも行き渡っている阿波軍と、中にはありつけない者もいる京兆軍。その差が歴然と現れたのだろう。
まともに指揮が取れているなら、左右に割れた兵たちで阿波軍を挟み討ちにしようとするに違いないが、そんな気配もない。
実際のところは、波多野兄弟がうまく兵を引きながら戦っているのかもしれないが、とにかくはた目には、ただ陣を崩して逃げ惑っているだけにしか見えなかった。
「勝負あったな」
父が強く息を吐きながら言った。
その言葉通り、京兆軍は崩壊寸前だ。本陣近くまで切り込まれているのが見える。
「あれは……三好殿か」
父が見ている方向に三好殿がいるのだとすれば、総大将直々に敵本陣まで乗り込もうとしているのだろう。
石巻城に交渉に来たときにも思ったが、肝の座った男だ。
兵を退くと言った阿波軍が、再び京兆軍に仕掛けたのには理由がある。
彼らが撤退した場合、管領殿は鬼の首をとったように優位を主張するだろう。将軍位は管領殿が担ぐ御方になる可能性が高い。そうなる前に、ここで討ち取っておきたいと考えたのだ。
そしてそれは、今川軍にとっても都合の良い話だった。
管領殿さえ排除できれば、京兆軍はそれ以上戦えないだろう。
「退いています」
目の良い土井が、勝千代には土埃ではっきり見えなくなった京兆本陣の方向を指し示した。
吉田城の東側、北にある豊川沿いに移動しているという。
だがあそこは川が大きく蛇行していて、あの方向に逃れてもUの字になった川で行き止まりだ。回り込まれたら川に逃げ込むしかなくなる。
勝千代は目をこらし、兵の動きを見ようとした。実際にあの場所にいる者には先の地形などわからないから、追い詰められている事に気づいていないのかもしれない。
それとも……わざとか?
「そろそろ参ろうか」
「……はい」
勝千代は父の誘いに頷いた。
今川軍もこのまま眺めているだけではない。もはや決着がつきそうなあの場面に、最後の駄目押しとして参戦する。
とはいっても、現在位置は城からおおよそ一里弱、三キロほどはあるので、威嚇の意味のほうが強い。
「戦に掛かる前に、できるだけ高い位置から布陣を見るのだ。地形を頭に叩き込め」
「はい」
思えば、こうやって父と轡を並べて戦に臨むのは初めてかもしれない。
吉田城では父は最前線、勝千代は後方だった。
正確には、轡を並べるじゃなくてタンデムだけど。勝千代にはまだ騎馬での参戦は難易度が高すぎるから仕方がない。
見晴らしの良い山を下り、ふもとの平野部まで出る。
そこにはすでに、今川軍の総兵力が待機していた。
かなり欠けてしまったが、それでも三千近くは残っている。
ふと、吉田城にいた頃の兵数に思いを馳せた。ざっと見積もって四千は越えていた。
ならば四分の一ほどの死傷者を出してしまったのか。痛すぎる損失だ。
だが、この一戦ですべてが終わる。
細川軍連合軍との大きな衝突は、これが最後になるだろう。
「お勝」
足を止めた勝千代を振り返り、父が呼ぶ。
本当ならば先程の場所で、勘助らとともに待っているようにと言われていたのだ。それを無理やりついていくと言ったのは勝千代のほうだ。
始まる前から怯んでいてはいけない。
悔やむのは、すべてが終わってからでいい。
喜久蔵はどこだ、藤次郎でもいい。
どうすることもできず、勝千代は早まった己を悔いた。
悔やむのは後では駄目だ。前言を撤回する。
どうか今すぐおろしてくれ。でなければ早く到着してくれ。
あり得ない奇跡が起こって、テレポートのように目的地に到着することを本気で願った。
父の乗馬技術は……これを優れていると言ってもいいのか? 荒馬を乗りこなしているから腕がいいとは言えないんじゃないか?
草原とはいえ道を進んでいるわけではないので、でこぼこと足場が悪い。
その道なき道を、直線距離で進む。
速度は速いわけではない。徒歩の者たちの速足ぐらいか。問題は、岩だろうが茂みだろうがまっすぐ乗り越えていくスタイルだ。
酔う。酔うって。
アップダウンと馬の背が揺れるたびに、酸っぱいものが込み上げてくる。何度も飲み下すから喉が痛くなってきた。
だが戦場が近い。本番はまだこれからだ。
土埃でうっすら白んでいる空気が目に染みる。怒声と剣戟の音も聞こえてくる。
三キロ手前の山から見下ろした戦場の情景を頭に浮かべる。
川の方向に退いた京兆本陣はどうなっているだろう。まだ撤退しているだろうか、あるいは踏みとどまって戦っているだろうか。
父が軽く手を上げた。
まるでカリスマ指揮者がタクトを振ったかのように、小走りに進んでいた軍勢がぴたりと止まる。
数千の武士足軽たちが一斉に動きを止める様は、見た事のない異様な情景だった。
何故このような事が可能なのか。
誰もが父の常識外れのパワーを感知して……いるわけではなく、軍の構成と配置を細かく組みなおし、情報伝達が速やかになるようにしているとのことだ。それにより、さながら練度の高い軍隊のような動きが可能になる。
不意に、父の太い腕が勝千代の腹の前に回って、ひょいとそのまま真上に引き上げられた。
顔の高さが、父と同じぐらいになる。
何を……と問い返そうとして、全軍の、数千の視線がこちらに向いている事に気づいた。
とっさに巨躯の影に引きこもろうとした。彼らが見ているのは父だと思ったからだ。
その動きを察したのだろう。父は更に、高い高いをするように、両手で勝千代を持ち上げた。
「号令を」
ご、号令?
勝千代は髭面をまじまじと見下ろした。それは父の役目ではないかと真顔で言いそうになって、そういえば総大将は己だったと思い出した。
……いや、本当に忘れていたんだって。
不意に、視界が開けた気がした。
視線が高くなったからではなく、父と黒馬の巨躯に視界が遮られなくなったからだと言うべきだろう。
顔が向いているのは、吉田城の方向だ。
目前には、陣形を崩した京兆細川軍の足軽部隊がいる。中央を突破され、どうすればいいのか指示を待ち、右往左往している。
これほど近くにいる今川軍に気づく様子すらない。
勝千代は大きく息を吸った。
右手を天高くに掲げ、眩い太陽にちらりと目を向け……
「かかれ!」
「応っ!」
素早く手を振り下ろした勝千代の声は、おそらく軍の隅々までは届かなかっただろう。
呼応の声をあげてくれたのは、近くにいた者たちだと思う。
ドンドンと足踏み、武器を構える音。
大変勇ましい、これから戦に向かう者たちを奮い立たせる鬨の声も上がっていたようだが、残念ながら勝千代の耳は仕事を放棄してそれらの音を拾わなかった。
今度こそ鼓膜が破れたかもしれない。父の大声のせいだ。




