60-6 東三河 石巻城1
何をしに来たのだ。
勝千代は、板間に背筋を伸ばして座る男を遠目に見た。
さすがに上座には座っていないが、完全なる下座とも言えない。
その背後には十人近い供回りの者たちがいて、おそらくは護衛も兼ねているのだろうが、落ち着かな気に周囲を警戒している。
勝千代がここまで来るのに、細川の兵は見かけなかった。
つまり三好殿は、たった十人を引き連れて敵の本拠に乗り込んできたわけだ。
ここで殺してしまえば楽だな。そんな誘惑がちらりと過る。
たった一人の命で済むのなら、あえて悪名を背負うのも悪くはない。
廊下の途中で立ち止まった勝千代の脇から、先に父が足を踏み出した。
乱暴な足取りだ。その気になれば足音も立てずに歩く癖に、ギシギシ鳴る床をわざと強めに踏みしめている。
室内で待っていた男たちが一斉にこちらを向いた。
護衛についてきた者たちが警戒するのは正しい。
この時代の成人男性より頭ひとつ分、いやふたつ分ほども飛び出して大柄で、百人いれば百人が熊を連想しそうな父だ。その殺気立った野性味のある容貌に、敵対する立場で向かい合うのは勝千代でも嫌だ。
数秒置いて、勝千代も歩き始めた。
よからぬことは考えてはいけない。誇り高い武人である父は、そういうことを最も嫌う。
時に猪突猛進、誰にも止められないほどまっすぐすぎるのは、上に立つ者としてかなりの問題だが……。
たった数秒迷っていただけなのに、随分と距離が開いてしまった。
父はドシドシと足音も高く廊下を進み、勝千代が追いつく前に、開け放たれた部屋の敷居をまたいだ。
挨拶の口上もなかった。
ヒヤリとしたが、誰からも咎められることはなかった。
「福島勝千代殿」
しばらくまじまじと父の偉容を見上げていた三好殿が、立ったまま威圧するその巨躯から目を逸らして勝千代を見た。
「お勝」
何かを言おうとした三好殿にかぶせて、父が勝千代を手招き呼んだ。
その太い指が指し示したのは、三好殿の真正面の位置だ。
いや、そこは。
全力で遠慮したかったのだが、先に父がその隣に座り、次いで天野殿が入り口側の隣に座ったので、必然的に勝千代はその間に座るしかなくなった。
一応は今川軍の総大将なので、席次として間違ってはいないのだが、心情的には是非父に上座は譲りたかった。
だが父は再び三好殿を睨み始めたので、余計なことは言わずにこっそりとため息をつくにとどめる。
「このようなときにどうされましたか」
早く用件を聞いて帰ってもらおう。
そう思い尋ねると、三好殿の唇がうっすらと笑みにほころんだ。
「御父上ですか?」
「はい。父の福島上総介です」
「何の用かさっさと申せ」
せっかくいい雰囲気で始まった会話のキャッチボールが、父の不機嫌そうな声に途切れた。父は良くも悪くも正直者なので、腹の探り合いなどできないのだ。
敵が相手なのだから、にこやかに話をする必要はない。そんな父の考えはわからなくもない。下手になれ合いが生じては、いざという時に戦えなくなる。
だが、本能的に敵味方を嗅ぎ分け、迷いもしない父とは違い、そんな特殊能力など持ち合わせていない勝千代は、相手の腹のうちを探り探り進めるしかない。
困ったものだとその顔を見上げ、あまりにも普段と変わりない父の様子に、逆に緊張がほぐれてきた。
それは三好殿も同様だったようだ。
互いに視線をかわし、まずは三好殿が、次いで勝千代が小さく頷く。
「率直に言おう」
そのほうがこちらとしても助かる。
三好殿はこれまでの背筋をピシリと伸ばした姿勢を緩め、軽く首の後ろを掻いた。
「わが軍が兵糧に困っている事は知っておいでだろう」
「……随分と正直におっしゃいますね」
「隠しても仕方がない」
確かにそうだ。両細川軍の補給が途絶えているのは、おそらくはその辺にいる足軽ですら気づいている。
だからこそ略奪が横行しているのであり、兵らの収拾がつかなくなっているのだ。
「大変ですね」
勝千代は他人事だと言わんばかりの口調で相槌を打った。
すべて今川軍の策だと察しているだろうに、三好殿は表情も変えずに「そうなのだ」と頷きを返す。
「それで我らに何の御用でしょう。当方も兵糧に余裕はありません」
「いやいや、そこまで厚かましい真似はせぬ」
京兆軍ほどではないにせよ、阿波軍のほうにも略奪行為にいそしむ足軽たちはいる。それは数に入れずに喋るあたり、正直者とは程遠い。……勝千代も人のことは言えないが。
やや間を置いて、三好殿は口を開いた。
「我らは退く」
迷いのない口調だった。
勝千代はまじまじと三好殿を見つめ、「それは助かります」と真顔で返した。
「いつ兵糧が届くかわからぬ。遠国で飢えて兵を維持できぬようでは、我が殿にも公方様にも申し訳が立たぬ」
阿波細川軍の総大将は三好殿だが、彼の主君は京にいる。
阿波細川家の当主は勝千代とそれほど年頃の変わらぬ若さのようで、今回の遠征には同行していないのだ。
そして「公方様」というのは、彼らが担いでいる次期将軍候補だ。
人柄などは知らないが、この遠征についてきていないあたり、荒事には関心がないのかもしれない。
それを言うなら京兆家の担ぐ御方もそうで、こちらはまだ元服前の幼少ゆえと聞いている。
「何か条件がおありでしょうか」
勝千代は用心深く尋ねた。
三好殿は小さく二度頷いて、手で軽く口元を覆った。
「今川が保護しておられる義宗殿、その身柄をお譲り願いたい」
すっかり存在を忘れていた。伊勢殿の首を落とした後、そのまま今川館で幽閉されているはずだ。
そんなものでいいのか、と思ったのは勝千代だけではないだろう。
探るように三好殿の顔を見ると、その目の奥には、正体のわからない、近寄りたくない昏い熱量のようなものがあった。
すでにもう彼の頭の中には、この先に待ち受ける管領殿との戦いしかないのかもしれない。




