60-5 東三河 山中2
「お勝ぅっ‼」
その声にビクリと身体が震えた。
急ぎ今川本隊と合流する事だけを考えていたが、そういえば父に叱られるかもしれない事は頭から抜けていた。
そもそもまだ数時間は先のはずで、心構えもできていなかった。
ドドドド! と迫ってくるのは足音。
とっさに逃げ出したくなったのは、生物としての本能だ。
「お勝!」
怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる。
再会したら、ああ言おうこう言おうと考えていたはずなのに、いざその時が来たら何も言えなかった。
心配をかけた自覚はある。
直情型の父が相手だ、正直な所、いくらかは口で誤魔化せると思っていた。
だが真っ赤になって激怒している様は恐ろしく、そんな安易な考えはすぐに散った。
父は数メートル先で立ち止まった。
顔は赤い。鬼のようだ。息遣いは荒く、盛り上がった両肩が大きく上下している。
まさかずっと走って来たのか? いつものように側付きたちはついてこれておらず、まだかなり後方にいる。
見えない方には必ず人を置けと言ったのに。
お互いに、小言を言おうとしたのはほぼ同時だ。勝千代は口だけだが、父など拳を握りしめている。その手をどうするつもりだよ。
「父上」
もちろん父が相手であろうとも、物理攻撃よりも口の方が早い。
「あれほど申し上げましたのに」
「お、お勝」
ようやく追いついてきた側付きたちは、息も整わずひどい有様だ。父付きなのだから、それなりに体力がある者たちを厳選しているはずなのだが。
ゼイゼイと喘ぎ声も出せない男たちに、これ以上根性入れて父を追えとはいえない。
やはり父に物申すべきだと顔を上げたとたんに、ぎょっとした。
ぼだぼたぼた……と、冗談のように大粒の涙がその髭を濡らしていたからだ。
「ち……」
驚愕のあまり叫びそうになったのをギリギリで堪えた。
「お勝うぅぅぅぅっ」
「……いや、泣かなくても」
小山のような大男に号泣されて、困惑する。
もともと涙もろいとは思っていたが、こんなところで「おんおん」声を上げて泣くとは思わなかった。
海野殿が驚愕のあまり、ぱかりと口をあけているじゃないか。
だがその他の者は驚きもせず、うずくまる父の側付きたちを労わっている。
勝千代はカオスなその状況を見回して、深い安堵半分、呆れ半分の息を吐いた。
抱き上げて運ぼうとする父の手を躱し、勝千代は山道を歩きながら事の次第を話した。
特に波多野三兄弟については、詳しい報告をしておかなければならない。
もちろん肝心の部分については、誰が聞いているとも知れない場所で話すわけにはいかない。詳しくは、本陣に戻って人払いしてからになるだろう。
しばらくは勝千代を抱き上げたいのか手をワキワキと動かしていた父だが、やがて諦めて隣を歩き始めた。
一行が進むのはかろうじて獣道と呼べる狭い道なので、かさばる父の体躯で藪がなぎ倒され、後方に広がった道ができる。その枝がやけに跳ねて勝千代に当たるのだが。
せめて前、あるいは後ろを歩いてくれないだろうか。
そう思いながらも、父と話していると「もう大丈夫」だとメンタルが落ち着くのだ。
それは周囲の皆も同じようで、気のせいではなく表情が明るい。
本当はもっと早く進めたのだろうが、勝千代の小さな歩幅に全員が合わせてくれて、結局今川本陣に到着したのは日が中天をかなり過ぎた刻限だった。
朝比奈殿も渋沢も不在だった。
ふたりとも近隣の略奪兵への対処に向かっているそうだ。
この先のことについては、勝千代が合流してからどうするか決めることになるようだ。
原案としては、さらに一煽りして両細川家を衝突させるつもりでいたのだが……状況は変わった。
「勝千代殿!」
父の帰還に気づいたのか、真っ先に城から出てきたのは天野殿だ。
いつも以上にニコニコと、穏やかな表情で笑いながら手を上げている。
「御無事でなによりです」
「天野殿も。戦況はいかがですか」
「悪くはありませぬ」
うんうん。
天野殿は喋るたびに頭を上下させるので、勝千代も頷き返したくなってくる。
知己の誰も欠けなかったわけではない。
厳しい戦いで負傷した者は多いし、何名か戦死したとの報告も受けている。
だがこうやって無事な姿を見ると、無意識のうちに笑みがこぼれた。
「お疲れでしょう、奥へ」
天野殿が広げた手には、刀が握られていた。こういう状況下だ、おかしなことではない。
だが、そこはかとない違和感はあって、思わずまじまじとその刀を見つめてしまった。
天野殿の持ち物にしては、少々豪華すぎる気がする。
ちらりと視線が合って、人のよさそうな笑顔の、目だけが真剣な事に気づいた。
父も察したのか、何かを言おうとしたが、勝千代はグイとその袖を引いて制した。
天野殿が警戒しているのは、周囲の目だ。
つまりは、入り込んでいるであろう間者に気づかれたくないのだ。
今川の本陣は、山の中腹にある石巻城に構えられている。
今はもうほとんど使われていない古い山城なのだが、標高のわりには難所の多い地形なので、山城を守る事に慣れている父には格好の場所だった。
なによりも展望がよく、敵が攻めてくればひと目でわかるのが良い。
細川軍にそんな余裕はないだろうが、仮に総攻撃されたとしても吉田城ほどすぐ落とされるようなことはないだろう。
勝千代はニコニコしながら、天野殿に続いて古びた城内に足を踏み入れた。
本丸ではなく、二の丸か三の丸かの平屋の大きめの建物に案内され、一歩中に入った瞬間に、笑った顔のまま目だけを細めた。
「……どちらですか」
「三好殿です」
一瞬、足が止まりそうになった。




