60-4 東三河 山中1
月明かりの差す山の斜面に、がっちりとした体格の男が転がっている。
その首筋に鋭い切っ先を当てているのは谷。他の護衛たちも鎧の隙間に刀を食い込ませている。
海野殿の槍兵たちも身構えていて、対する五名ほどの波多野家の家臣たちは動くに動けずにいた。
制圧完了。さてどうしよう。
勝千代は今にも頸動脈を切り裂きそうな谷に近づき、その肩に手を置いた。
男が「逃げろ」と言った瞬間ならばまあ、退くことはできたかもしれない。だが五対百五十だ。今の状況からの抵抗は無理だ。
特に問題になるのは、死んだように動かない怪我人の存在だろう。やはり退くのも難しいかな。
勝千代はとりあえず刀を下げるよう言おうとしたのだが、その言葉は「お待ちを!」と甲高い声に遮られた。
「四郎っ! 来てはならぬ‼」
「父上!」
だから声を抑えて……「投降致します故、どうか父を殺さないでくださいっ」いやあのね。
勝千代は深く息を吐いた。
谷がちらりとこちらを見てきた。その思うところは手に取るようにわかる。
この厄介者たちをきれいさっぱり始末してしまえば、問題なく先へ進むことができる。あと数時間歩けば危険地帯を抜け、本隊と合流できるだろう。
だが、投降すると言われてそれもできなくなった。
実際のところは聞かなかったことにすればいいだけだし、仮にそう命じたとしても、誰も責めてくることはないだろうが。
勝千代は、死を覚悟した男たちの表情を眺めた。
あの古寺から、囮を豊川方面に向かわせ、波多野殿を逆方向に逃した。暗がりの混戦状態だったとは言え、うまくやったと思う。
誰の指示だろうか、首からダラダラ血を流している突撃男の策だとは思えない。怪我人の指示か?
「まあいいでしょう」
勝千代はそれ以上考えるのをやめた。
正直な所、投降されても困るのだが、選択肢のカードが一枚手に入ったと思えばいいのだ。
「ここはまだ追っ手が近い。大声を出すようなら即座に口を塞がせていただきます」
海野殿が正気かと言いたげな視線を向けてきた。だが勝千代の側付きたちが無反応なのを見て、おとなしく黙っている。
「放して差し上げろ」
拘束していた男から一斉に刀が引かれた。とはいえ完全に自由にしたわけではなく、谷は切っ先は引いたが刀をおさめはしなかった。海野殿の槍兵もまだ穂先をつきつけたままだ。
用心してまずは武器を預かった。次いで、ぐったりと動かない波多野殿の容態を弥太郎に診させる。
切られたままの状態ではなく、一応の手当てを受けたようだが、見るからに重傷だった。
弥太郎は波多野殿の首に手を置き脈を測り、肺に耳を当て呼吸の音を聞いた。
怪我はどこかという質問に答えたのは四郎少年だった。背中だそうだ。
逃げようとして切り付けられたのか、信頼している相手から切られたのか。
勝千代は情報として、「管領殿が重臣を切った」とは聞いているが、それが管領殿本人の手によるものなのか、その名を語る別の誰かが実行したのかは知らない。
だがそういう話が広がっている以上、波多野殿と管領殿の関係性が良くないのは間違いないだろう。
「……どうだ」
勝千代が問うと、弥太郎がこちらに顔を向けて頭を下げた。
「熱は思ったよりも高くなく、傷も深くはありません。ですが、相当血を流したのではないですか? 手当てが遅れたか、止血するのに手間取ったか」
「……伯父上は、血まみれのまま半日以上放置されていたそうです」
四郎少年が震える口調でそう言って、拳を地面に叩きつけた。
「我らを最前線に立たせ、何も知らずに戦っている間にっ」
勝千代は声変わりもまだの少年の様子をじっと見つめ、「なるほど」と頷いた。
「何らかの罪を追及されたわけではない?」
「罪に問われるようなことなど何も!」
波多野の軍はわけもわからぬままに最先鋒を命じられ、陣代は討ち死に。残る兵は少年の父である香西四郎兵衛殿が預かっているそうだ。
戦後の混乱の中、必死に軍を立て直そうとしていた親子は、京兆軍本陣に務める叔父から波多野殿の負傷を聞いた。
そして紆余曲折の末、波多野殿を保護し、安全な場所まで移動させようとしていた最中、大量の兵に囲まれてしまったのだとか。
「いまだに何故、典厩家が我らを追ってきたのかわかりません」
ギリりと奥歯を噛みしめながらそういう少年は、固く握りしめたこぶしを太ももにめり込ませるようにして、その憎しみと恨みを抑え込もうとしていた。
……いや、これは思ったより良い拾いものかもしれない。
勝千代は顎に手を当ててさすった。
吉田城よりも上流方向の山中にて。
眼下に集まってくるのは、物々しい鎧兜の軍勢だ。
明け方の薄墨のような光の中、木々の隙間から垣間見えるのは香西の兵だ。いやそれだけではない、兄波多野家の家紋と、本陣に詰めている弟のものだろう家紋もある。
三兄弟仲がいいのだな……勝千代は羨ましく思いながら、こちらに向かって頭を下げている兄弟に頷きを返した。言葉は交わさなかった。見送っただけだ。
波多野殿は近隣の寺で休養することになった。
こちらにも勝千代は関わらない。いや正確には、治療にあたる薬師はつけた。弥太郎の配下の者だ。つるりとした坊主頭の忍びだから、そのまま坊主で通すらしい。
昨晩遅くに、用件を伝えた書簡を握りしめて波多野の末弟だという男が訪ねてきた。
知的な面立ちのその男は柳本弾正忠と名乗り、勝千代が何者か気づかないわけがないのに、兄を救ってくれたことへの礼を丁寧に述べた。
柳本殿の言い分によると、管領殿が波多野殿を切り付けたという事実はないらしい。とはいえ最近の管領殿が周囲の全方向に怒りをぶつけているのは事実で、そういう事情からうわさが広がったのではないかとのことだ。
……京兆家の家臣として、口にはできない事もあるのだろう。
正直者の香西殿が申し訳なさそうな顔を、四郎殿が唇を噛んで悔しそうな顔をしているのがすべてを物語っている。
勝千代も深くは聞かず、「どこの御家もいろいろありますから」と流しておいた。
遠ざかっていく兄弟と小柄な少年の後ろ姿を見送りながら、果たして彼らはうまくやってくれるだろうかと心配になってきた。
まかり間違えば、それこそ一族もろとも磔にされるほどの大罪だ。
迷いはないかと尋ねたときに、うっすらと笑った柳本殿のあの表情。
……やはり波多野殿を切り付けたのは、管領殿ご本人なのかもしれない。
長兄を人質に取られたと思うか否か。
波多野兄弟の内心はどうだったでしょう。




