60-1 東三河 豊川下流
隠し水路は豊川の水を利用してできたもので、入り口は人工的な石造りだが、出口はその川の下流の洞窟につながっていた。
直接船で出入りできる作りではなく、外に出るには短くない迷路のような洞窟内を歩き、板を渡した深い地面の切れ目をまたぎ、更には上方面に梯子を登らなければならなかった。
問題は篝火がなければ一歩も歩けないほどの暗さと、川の増水で洞窟内にも水が溢れていた事だ。
滑りやすく、迂回路を取らざるを得ない水の流れがいたるところにできていて、移動は中々に困難だった。
ただ、内部を知り抜いている勘助が道案内してくれたので、時間はかかったが、迷うことはなかった。
大人数ということもあり、何かが潜んでいそうな暗さにも恐ろしさを感じなかったのも良かった。
ようやく陽の光を見ることができたのは、船を降りて歩き始めて小一時間ほどだろうか。
出口は小さな祠の裏側にあり、勝千代でも腰を屈めないと進めないほど狭い洞穴だった。
父では潜り込むにも相当苦労しそうなサイズなので、奥に何かがあると知っていないと、わざわざ入ろうとは思わないだろう。
城からかなり距離もあり、全員が無事脱出できたのは西日が差す頃になってからだった。
茜色の夕日に染まる美しい情景の中、燃え上がる城の様子は、まるでその朱色の一部であるかのように埋没して見えた。
勝千代は遠くに見えるその様子を、目を細めて見つめた。
炎はかなり大きい。もしかすると城下町にまで燃え広がってしまったのかもしれない。
五十人全員が洞穴から出終える頃、先に索敵に出していた弥太郎が険しい表情で戻って来た。
ひとりではなかった。見覚えのある男と、その配下の者たちを引き連れている。
「……海野殿?」
茜色に染まった彼らの鎧は、まるで血まみれのように真っ赤に見えた。
「やあ、勝千代殿。ようやく見つけました」
ちらりと弥太郎を見ると、軽く首を左右に振られた。
頭をかすめた警戒心を、念入りに心の奥深くに押込めて、「どうしてこちらへ?」と問いかける。
ここは豊川の下流域。つまりは細川軍側の布陣地だ。今川側の海野殿が百ほどの槍兵を引き連れ堂々と行き来できる場所ではない。
海野殿は肩をすくめ、勝千代を探していたのだと言った。
とっさに顔を顰めてしまったのは、早々に父に事が露見していると知ったからだ。
元々の合流予定は明日なので、なんとか誤魔化せるかと思っていたのだが。
「戦況はどうなっていますか」
海野殿は勝千代のその問いに、無言で数回首を上下させた。前回同様、じっとこちらを見てくる表情は読み取りがたい。
「いやぁ、うまく揉めておりますよ」
まさか父が、ではないよな? 揉めているのが両細川家であることを祈りつつ、勝千代もまた頷き返す。
吉田城が主戦場になると事前にわかっていたので、非戦闘員の町人も兵糧もすべて逃している。なので盛大に揉めてくれて構わない。いやむしろそうして欲しい。
「阿波細川軍の兵が予想外に少なく、劣勢です。京兆軍のほうは兵糧切れで後がないので、鬼気迫っておりますし」
そういえば攻城戦の初手から、阿波細川軍の数が少ないと感じていた。理由は何だろう。まさか後方から京兆軍を叩こうとしたわけではあるまい。
「まとまった兵糧は、あと四日は届かんでしょう」
洞窟探検で疲労困憊していた勘助が、生き生きと息を吹き返したように目を輝かせる。もしかしなくとも、実戦よりも、こういう意地わるい搦手の方が好きなのかもしれない。
それにしても、兵糧を切らしてあと四日も届かないというのは厳しい。そろそろ兵が動かなくなる頃か。吉田城には山積みの米俵があると期待したのだろうが残念だな。
ただでさえ不穏な関係だったのに、実際に諍いになってしまっては、ここから兵糧を分けてくれと阿波軍に頭を下げる事も出来ないだろうし。
勝千代は、夕刻が進み、よりはっきりわかるようになった吉田城を振り返った。
まだ火は消えていない。いやむしろより高く炎が立ち上っている。
今なら和睦もうまくいくだろうか。
いや、あと少し阿波軍の兵糧を減らしてからだな。
船便の方を潰せば、京兆軍と同じ兵糧難に陥るだろうが、相手はおそらく水軍だ。船を狙うのではなく、やはり陸に上がったところを……いや、それを警戒したからこそ兵を分散したのかもしれない。
動くにしても、もっと情報を集め兵を整えてからだ。
「取り急ぎ合流いたしましょう。周辺に敵の姿はありませんが、急ぐに越したことはありませぬ」
温和な声色だ。表情もにこやかだ。
だが海野殿の視線には何故か、油断ならないものを感じた。
「そうですね」
勝千代はそう言いながら、軽く腰の小刀に手を置く。
きっとそれだけで、周囲の者は警戒を緩めないだろう。
「斯波軍が不可解な動きをしています」
海野殿が少し離れ、配下の者に指示を出しに向かった時、弥太郎が小声でそう言ってきた。
聞かれてはならない重要な事のようには感じないが、海野殿と情報共有したくなかったのだと思う。
勝千代自身、どこがどうとは言わないが、若干の不信感をぬぐえない。
他ならぬ父が連れてきた男だ。今川家にとってはありがたい援軍でもあるし、源九郎叔父の婿入り先でもある。
疑ってかかるのが申し訳ない気持ち半分、どうしてそんなにもじろじろと勝千代を見つめ、危険に身をさらしてまで敵地に救出に来たのかと訝しむ気持ち半分だ。
勝千代は、こちらに背中を向けて配下の男と話している海野殿に目を向けた。
「……どう思う?」
斯波軍の件もそうだが、言外に問うたのは海野殿の事だ。
弥太郎はしばらく黙り、「どこも一枚岩というわけではありません」と、微妙にどうとでも取れる返答をしてきた。
弥太郎は海野殿らに背中を向けた立ち位置で、口元を読まれないように早口で続けた。
「先だって河原で殿に討たれたのは、守護代織田家の重臣です」
織田! パッと顔を上げ弥太郎を見ると、軽く頷き返された。
勝千代が感じた衝撃を本当の意味で理解したとは思えないが、弥太郎は更に続ける。
「分家が本家を食おうと兵を動かしたという噂があります。松平も尾張との国境付近に兵を向かわせたと」
勝千代は眉間にしわを寄せそうになり、それを誤魔化すために眉頭を揉んだ。




