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春雷記  作者:
三河編

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354/397

59-6 東三河 吉田城5 落城

 楽しい、というのとはやはり違う気がする。

 だが谷たちにとっては、命の掛かったこの瞬間こそが最高に心を高揚させ、強烈に「生きている」という感覚に見舞われるのかもしれない。

 人が死んでいくのが、珍しくもなんともない時代が生んだ感性だ。

 己が奪った命、牧野の嫡男やその家臣たちのことなど、きっと既に頭にはない。

 ひときわ大きな歓声が上がる。

 地鳴りのようなどよめきと、興奮した叫び声と。

 勝千代は回廊の外に目を向けて、城下町で争っていた兵たちの多くが、細川家のものになっているのを確認した。

 そんな彼らもまた、彼らの正義のもとに今川軍の者たちを惨殺し、それについての罪の意識など微塵もないのだろう。

 敵を殺して生き延びる。それこそが正義であり、この時代の常識なのだ。

 ……頃合いだ。

 もはや普通の声では会話が聞こえないので、視線と手で合図をする。

 ばしゃり、と湿った音をたてて撒かれたのは菜種油だ。

 吐き気を催す強烈な血の臭いに、油の香ばしさが混じる。

 去り際、勝千代は転がる無残な死体を横目で見た。

 気持ち悪いと感じるのは、車にひかれた生き物を見るのと同じ感覚かもしれない。

 平和な時代を生きた感性が擦り切れていく。

 勝千代は最後に、土井が死体にも油を振りかけるのを確認してから、もはや二度とそちらを見ることはなかった。


 勘助がひねり出した策は、複雑なものではない。

 あらかじめ決められた手順、決められた合図。そして、決められた方向へと兵を動かすだけだ。

 緊急だったので、細かな指示を出したわけではない。外せない部分だけを決め、あとは流れに任せることになっている。

 まずは牧野らの牢を、善意を装って開け放った。「城はもう落ちるだろうから、早く逃げろ」と。

 もちろん解放した者たちが、素直にその通りにすると思っていたわけではない。逆に、この機会に吉田城を取り戻そうとすると予想していた。

 勝千代を狙ってくると危惧したのは、小次郎殿とうちの護衛たちだ。護衛たちについては、そういう心配をするのが仕事だからわかるのだが、小次郎殿は違った。

 人は、恨みや憎しみをはらす機会を簡単に諦めることはないそうだ。

 勝千代の首になど、本音を言えばたいした価値はないと思う。だが今川軍総大将だ。恨みは相当にあるだろう。父や朝比奈殿を討つ自信はなくとも、勝千代の細首なら取れると思ったのかもしれない。

 だが仮に、この首をどうしても奪いたかったのだとしても、寡兵を半分に分けるという選択は良くない。

 捕らえられていた牧野の兵数は限られている。その全員を動員したとしても、工作ひとつするのも困難だ。

 それなのに、彼らは人数の半数を本丸に向けた。つまりは残る二十人で、よりにもよって今川兵が一番大勢いる大手門を奪おうとしたわけだ。

 四、五十人いたとしても失敗していただろう。それなのに、半数を本丸突撃にあてるなど正気ではない。

 後から聞いた話によると、思っていた以上にあっけなく彼らは地に伏し、実際に大手門を開いたのは、牧野家を装う小次郎殿の配下だそうだ。


 勘助の策とは、要約すると、「牧野の蜂起により城が早々に落ちたように装う」ことだ。

 本丸櫓から垂らされた青い反物には、大きく牧野家の家紋が刻まれている。

 それは今川軍にとっては移動の合図だが、この城を囲む者たちにとっては、別の意味に見えるだろう。

 ちなみに南側には牧野家の旗。北側には阿波細川家の旗を垂らしてある。

 それを見てそれぞれがどう思うかは、推して知るべし。

 ここから先は心理戦だ。

 阿波細川軍が吉田城を落とし、たっぷりある兵糧のすべてを手にしようとしている。そう思わせる事ができれば、京兆軍も我先にと城になだれ込んでくるだろう。

 あとは……油だよ。油。城のいたるところに仕掛けた油。

 本丸以外の多くの場所は、屋根の梁や床下の柱の部分に限らせているから、すぐに臭いで気づかれることもないだろう。

 うまくいけば、木造の建造物など一瞬で燃え落ちる。

 そう、今川軍は「ふり」ではなく、吉田城の放棄を選択した。

 勘助が多くの策の中からこの道を選んだのは、勝千代が「両細川の同士討ち」を命じたからだ。

 家紋入り布が本丸に翻ってから、京兆軍が駆けつけるまでの時間差が肝だ。

 空っぽの米蔵を見て、阿波軍がひとり占めしたと疑おうと思えば疑える状況。

 果たして京兆軍は、これを今川の策だと見抜くだろうか。


「京兆軍の様子はどうだ」

 勝千代の問いに、木々の間から見える軍勢を指し示すのは勘助。

 素早く動く事ができない義足の男は、勝千代同様、最後まで吉田城で戦況を見守る事を選んだ。

 ここ本丸に隣接した奥殿は、本来城主の家族が居住している場所だ。高さはないので見晴らしは良くないが、城中から直接川に続く隠し水路がある。

 最悪の場合に城から落ち延びる為に作られたその道を、勝千代および最後まで城に残った者たちが利用する予定だ。

 今川軍の大多数は、すでに城から離れて東方面に移動している。

 勝千代含む五十人ほどが、水路を使って西側に脱出する。

 勝千代は良くも悪くも目立つので、早期に姿を消すと何がしか勘づかれる恐れがあった。

 故に最後だ。それでいい。

 ちなみに、父にはこのことは言っていない。城中の者たちとともに北側から先に逃れると伝えてある。

 後で叱られるだろうか? いや、気づかれる前に合流すれば問題ない。

「崩れました」

 勘助が指し示すのは北の布陣。東三河の国人衆だ。

 まだ京兆軍とぶつかる前から、その大軍に威圧され陣形が乱れていた。

 それが一気に崩れたのは、本丸の阿波細川家の旗を見たからか。

 もちろん、それも織り込み済みだ。

 京兆軍が見るからに気色ばんでこちらに突進してくる。どう見ても穏便な雰囲気ではない、蹴散らされる三河兵など見向きもせず、突進してくる様はまさに攻城戦だ。


「火をつけさせてください」

 そう言った勘助の声はしわがれていた。相変わらずのニヒルな口調、感情を読ませない淡々としたものだ。

 勝千代は、あえて勘助の方は見ず「いいとも」と頷いた。

 吉田城を燃やす。そのことについてこの男がどう思っているのかはわからない。おそらく勘助が幼少期からの長い時間を、筆頭家老の嫡男として過ごした場所だ。少なくとも養家に男児が産まれるまでは大事にされていたと聞いているし、思い入れもあるだろう。

 牧野らについてもそうだ。旧主として恨みがあったのは理解できる。だから無残な結末が訪れるように仕組んだのかもしれない。

 そんな風に思いはするが、問わなかった。

 味方であるはずの両細川軍がここで共倒れに……とまではいかなくとも、関係修復不可能なほどにやりあってくれるなら、そう仕向けた勘助の手腕は恐るべきものだ。

 牧野家が才を認めず使い捨てにしたのがそもそもの禍根であり、それについて勝千代が口を出す謂れはない。

 人は、恨みや憎しみをはらす機会を簡単に諦めることはない。

 ……つまりそういうことなのだろう。

難所でした。書きにくかった。

修正入れるかもしれません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 勘介の策、勝千代の采配、どちらもすごいです。感心します。
[良い点] ちょっと言葉にできないくらい良かったです。 56-5あたりからの吉田城をめぐる攻防と駆け引きは、息が詰まるようでした。 きっと、作者様が勝千代の一人称視点にこだわっているからこそ、ここまで…
[一言] 凄く面白い
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