59-5 東三河 吉田城4
血の臭いが風に乗ってくる。
土煙の上がっているのは城の南側。本丸からは距離があるので、怒号や剣戟の音はまだ遠い。
音より先に臭いが届くなどありえないので、きっと精神が過敏になっているのだろう。
勝千代はぐっと奥歯を噛みしめた。
あそこに父がいる。渋沢や、顔見知りの国人衆もいる。
目をこらしてみても戦況の詳細はわからないが、楽な戦いではないのは見てとれる。
かろうじて把握できるのは、展開している阿波細川軍が予想よりも少ない事ぐらいか。
南から川沿いを直接攻め上がってくるだけでなく、別働の部隊がいるのかもしれない。
それを幸運だったと思うべきか。何らかの策がありそうだと警戒するべきか。
きっと後者なのだろうが、今の敵に対処するのが精いっぱいだ。
正直、これほどの兵力差があって、真正面から打って出るのは悪手だ。いずれ崩れるのは目に見えている。……そうなる前に。
勝千代は、そわそわと貧乏ゆすりをしたくなるのをじっとこらえた。
管領殿の軍は、まだ半数程度が川を越えた段階だ。
早く策の発動条件がそろわないかと苛立ちだけが募った。
勝千代が貧乏ゆすりをしたところで、都合よく物事が進んでくれることなどない。ただ時間だけが過ぎ、仲間の兵が削られていく。
ああ、血の臭いだ。
今この瞬間にも、大勢が負傷し、あるいは命を散らしている。
想像するだけで全身が細かく震え、呻き声が喉からこぼれそうだった。
細川京兆軍が迫っていると知らせが届いたのは、日もかなり高くなってきてからだ。
遅いと舌打ちしたい。もっと早く早くと尻を蹴飛ばしてやりたい。
勝千代は、小次郎殿に目配せをした。
頷きが返ってきて、既に配備についている事を知らせてくれる。
もう少しだ。
再び砂ぼこりの上がっている場所に目をこらす。父は無事か。皆は生き残っているか。
これほどの混戦だ、楽観視はできない。
本丸櫓の上から青い布が垂れた。バサリ、と反物が広がり落ちていく音が聞こえる。
合図はただそれだけ。通常ありがちな陣太鼓も法螺貝も鳴らさない。
若干のタイムラグの後、わずかに動向が変わった。今川方がじりじりと押され始めたのだ。
上から見ていると、阿波細川軍の猛攻に一角が崩れて陣が乱れた感じだ。
陣の中央というわけではない。誰が守っていた場所かもわからない。だがそこが崩れることによって、徐々に防衛ラインが城に近づいてくる。
平城で、かつ天守閣もないので、これ以上の詳細を目で追うことはできなかった。
更に半刻。
怒声と剣戟はすでにはっきりと耳まで届いている。ドンドンと何かを破壊しようとする音もする。
大手門の前まで押し寄せられたか? 別の場所から侵入しようとしているのか?
「そろそろではないですか?」
藤次郎が落ち着かなげに言った。
「まだだ」
焦る心を落ち着かせるべく、大きく鼻から息を吸いこむ。
血の臭いに交じって、乾いた土の臭いもした。
兵たちが大地を踏みしめ、命を懸けて戦っている証か、あるいは城の一角が既に破られたのか。
次第に空気がけぶるほどの土埃が舞い始めた。そろそろ移動しようか、そう口を開こうとして。
側付きや護衛たちの表情が険しい。小次郎殿もだ。がっつり鎧兜を身にまとった井伊家の者たちが、こちらに背中を向けて後ずさってくるのが見えた。
荒い足音が複数。回廊を足早に駆け寄ってくる。
勝千代の周囲でも、護衛の谷らを中心に、側付きたちが刀に手を当て身構える。
ここは本丸のもっとも高い位置にある回廊で、コの字型の廊下がぐるりと部屋を半周している。その見えない位置から現れたのは、抜き身の刀をぶら下げた一団だった。
先頭にいるのは、見覚えのある牧野家の嫡男だ。
「賭けは某の勝ちですね」
刀を抜きながらそう言ったのは、小次郎殿。
同時に、その場にいる大人全員が戦いに備えた。
勝千代は、鬼のような形相の若者を横目に見て溜息をついた。
「一族の存亡よりも、恨みを優先か」
カッと目を剥いた牧野の嫡男は、そのまま大声を上げて突進してきた。
地下牢にいたせいだろう、その身なりは薄汚れ、顎にも月代にもびっしりと黒いものが生え、血走った目と相まって、とても正気とは思えない形相だ。
襲い掛かってきたのは二十数名。中々に多い。だがこちらも同程度の数はいる。
ドドーン! と重い音がした。何かが倒れるような音だ。
勝千代がはっと外に目をこらすのと、谷と切り結んでいた牧野の嫡男が「ひゃはははは」と突拍子もない声で哄笑するのとは同時だった。
「大手門は開け放ったぞ! 今川軍など全滅よ‼」
言葉は最後まで聞こえたが、その首はそれよりも前に宙を飛んでいた。
やがて襲撃者たちは制圧された。そもそもうちの腕利きたちを相手取り、防具もない、腕達者でもない若者だけでは無謀すぎた。
それでも、完全に無傷だとは言えず、幾人かは手傷を負っている。
それらが命に障るほどのものではないと確認してから、勝千代はほっと息を吐いた。
「今川軍は全滅だそうですよ」
血濡れた刀身を丁寧に拭きながら、どちらかというと文官よりだと思っていた井伊の嫡男が「ふふふ」と笑った。
笑っている場合ではない。飛び散る鮮血に辟易としながら、勝千代が咎める視線を向けると、あろうことかうちの藤次郎までもが唇を歪めて笑っていた。
「殿がいらしてそれはあり得ません」
くつくつと肩を揺らし、その笑いが周囲にも広がっていく。
……え、怖い。
血まみれスプラッタな現場で、死体と怪我人を量産した男たちが肩を揺らして笑っている。
狂気的な雰囲気があるならまだしも、至極楽しそうな、まるでゲームでも楽しんでいるような雰囲気なのだ。
勝千代は内心思いっきり引いていたが、強いてそれを面には出すまいとした。
恐怖や緊張で振り切れているのか? まさか本当に楽しいなどということは……
丁度、と言ってもいいものか、視線の先にいた谷と目が合った。
谷は間違いなくうきうきと、スキップでもしそうな雰囲気で襲撃者にとどめを刺して回っていた。
目が合って、こてりとその首が傾く。
恐怖? 緊張?
……いや、そんなものを感じている風は微塵もない。
勝千代は引きつりそうになる表情をこらえて、無難に頷き返すにとどめた。




