59-4 東三河 吉田城3
近距離にある男の顔を、瞬きもせずじっと見返す。
無秩序に走る刃物傷と、爛れた火傷の痕と。潰れた片方の目に眼球がないからだろう、顔面の半分が引きつれるように歪んでいる。
「これが最善です」
そう断言されて、声を荒立てようとしたのは側付きたちだ。谷は刀に手を掛け、藤次郎はすでに勘助の腕を掴んで勝千代から引き離そうとしている。
「わかった」
「勝千代様!」
側付きたちが口々に悲鳴のような声を上げた。
勝千代は軽く手を上げ、呼気を荒立ていきり立っている男たちを見回す。
「堤を壊すような大掛かりな策はもう打てない。数万に囲まれてしまえば、平城故に籠城するのも難しい」
「しかし!」
「戦いが始まれば数で押し負ける」
勝千代は、今ここに父がいない事を感謝した。
父は止めるだろう。それどころか、問答無用に勘助を処分するかもしれない。
「そんなことは断じてありませぬ! まずは南からの阿波軍を追い払い、それから……」
「藤次郎」
勝千代は真顔のまま藤次郎に目を向けた。
「我らの狙いは何だ」
「それはもちろん、細川軍に勝利し追い返すことです」
「そのためには何が必要だ」
「そのためにはですか? それは……」
藤次郎ははっとしたように息を飲んだ。
そうだ、勝千代が勘助に命じたのは、両細川を同士討ちさせる策だ。
そもそも寡兵の今川軍に取れる手立ては多くはない。
真正面から対戦するなど無謀、搦手からいくしかないのだ。
勘助の捻り出した策が、果たして最善かどうかはわからない。
だが、うまく転がれば望む方向に誘導できる可能性はある。
それには細かく兵を動かす必要があり、今は各将にその事を周知するだけの時間的余裕はないのが難点だ。
「敵の動きはどうだ」
ややあって、勝千代は口を開いた。
それに返答をしたのは土井だ。
「船で上陸した兵が、夜を徹して橋を掛けたようです」
つまりは、南側から攻め込んでくる阿波細川家は、その全戦力を攻城戦に向ける事ができるということだ。
彼らは兵糧もそれなりに所持している。それが尽きるまでにという強い思いもあるだろう。
既に日はのぼりはじめ、土地勘がない場所でも足元が危うい状況ではなくなっている。
最初の攻撃を仕掛けてくる頃合いか。
第一陣は何とかしのがなければならない。北側からの京兆軍が攻め込んでくるのを待って、勘助の策を行使する。
今のところ京兆軍が川を渡ったという話は伝わってこないが、兵糧が足りない彼らは阿波軍よりもなお行動を急いでいるはずだ。
先に吉田城を落とされてしまえば、そこにある兵糧を阿波軍に独り占めされると危惧する者も多いだろう。
仲が良いとは言えない彼らが、食料を分け合うなどと足並みをそろえる事ができるとは思えないから、双方にとって吉田城にある兵糧は、今後の行軍の為にも先に手に入れておきたいもののはず。
勝千代は、あらかたの人間がいなくなった大広間を見回し、廊下の方に立つ鎧兜の男に目を向けた。
「小次郎殿」
井伊の嫡男殿の名を呼ぶと、ほんの一瞬、彼がうっすら口もとを緩めた気がした。
「協力していただけますか?」
「面白そうですね」
勝千代の側付きたちが、咎める目つきで、父親には似ていない真面目そうな青年を睨む。だが小次郎殿は全く気にせず、兜の顎紐を結ばれたあたりを指先でさすった。そこだけは、井伊殿にそっくりな癖だな。
「手綱を緩めるだけで、すべて連中がやってくれそうな気もしますが」
「まだ死にたくはないので」
策が成就する前に殺されるリスクを負うつもりはない。もちろんその後も、生きて父たちと合流するつもりでいる。
「それはまあ、恨み心頭でしょうから」
小次郎殿はそう言って、不満そうな者たちにちらりと視線を向けた。
「ほかにも、城内にお残りになっている有象無象はどうされますか?」
集まってきている東三河の国人たちの事だ。有象無象とは厳しい言い方だが、その多くは威勢だけはいいが、この期に及んでまだ動こうともしていない。
城内の治安維持のために留守居役を任せられた小次郎殿には、思うところもあるのだろう。
「……北側を任せてみましょうか」
おそらくはたいして期待するべきでも、さほど警戒するべきでもない。だが、自由にさせて不確定要素にするわけにもいかない。
大軍で押し寄せてきている阿波細川軍ではなく、まだ敵影もない上流方面への配備なら、重い腰を上げてくれるだろう。実際に京兆軍が姿を見せれば、たちまち崩れてしまうのは目に見えているが。
本来三河武士とは、辛抱強く強壮、勇猛果敢と言われている者たちだ。だがこの戦は、彼らの土俵で勝手に行われている他所者同士の戦いなのだ。できる事なら関わりたくないと思っているのはありありと伝わってくる。
心情はものすごく理解できる。だが、そういう考えでいる連中を味方と思い、信頼を置くことはできない。
勝千代の「任せる」の言葉の意味を正確に理解したのだろう、小次郎殿は再び口角を上げた。
あとはそう、父たちの説得か。
両細川軍をきれいに嵌める為には、父や朝比奈殿の協力も不可欠だ。
反対されるだろう。だが父に関して言えば、文句を言う隙を与えなければよい。
勝千代は、刻一刻と増していく城内の騒音に耳を澄ませた。
戦が近づいている。
前線武将である父たちはすでに阿波細川軍を迎え討つための配備についている。
槍働きでは何の役にも立てない勝千代だが、一応はこの軍の総大将だ。
ひとりでも多く、生きて連れて帰る。
それは、名誉をなによりも重んじる武士とは少し違う、勝千代なりの信条だった。
一月一日から大変な思いをされている方々へ。
どうかご無事で。




