5-7 上京 一条邸 北対
逢坂老が戻ってくるときに使用した棟門は、敷地の北東にある。伊勢殿と北条勢がいるのは大通りに面した東側の四脚門なので、距離的に近すぎる。
西側の四脚門も、おそらくそれなりの人員を配してあるだろうから却下。
北対と呼ばれる棟から最も近いのは、厨の前を通る北の通用口だ。雑舎と呼ばれる建物や倉などが立ち並び、邸内の身分が低い使用人などが日常的に利用している。
真っ先にそこを引き口にしようという案が出たが、どうにも嫌な感じが拭えなかった。
勝千代なら、おそらく一番にそこを見張る。
伊勢殿も、きっと同じように考える。
もちろん、引き口を利用するような事態にならなければ、すべては杞憂に終わる。
だが、勝千代の中の予感めいたものが、油断するなと、常に最悪の事態を想像しておくべきだと囁くのだ。
「……いや、ここですね」
勝千代は、小次郎殿が簡易に書き記してくれた図面を見て、北東の棟門を指し示した。
現在北条勢が最も多いであろう東側の正門から最も近い場所だ。
難しい顔をしたのは、そこを通って来たばかりの逢坂老。おそらく、兵との近さをよくわかっているからだろう。
「お姫さんらは素早くはよう動かんやろう」
同じく、難を口にしたのは東雲だ。
小次郎殿も同感と頷いている。
「失礼ですが、御自分の足では無理かもしれませんが、お運びするのでしたら可能でしょう」
勝千代は、大通り隔てた向かいの寺を扇子で指し示した。
「……いや」
真っ先に首を左右に振ったのは、東雲だ。
そこは浄土宗の寺だった。皇族と縁の深い由緒ある寺だ。
東雲が首を振ったという事は、あまりお勧めできない、というところだろう。
「私が姫君に扮して、ここに運び込まれます」
「……は」
その場にいた大人たちは皆、きょとんとした表情をした。
「もう一人、女房殿で足に自信がある方、あるいは小柄な男が御方様に扮します」
もちろん、最悪の事態が起こった場合の事だ。
北条家の者たちが、この屋敷内を踏み荒らすとは思いたくない。
だが、縁のある伊勢殿にうまく乗せられて、御方様や姫君をお守りするためと称してその身柄を拘束しようとするかもしれない。
そうなってしまえば、権中納言様の弱みをにぎったようなもの、公家をいや天皇家すら思うように動かすことも不可能ではなくなる。
「……なるほど、実際は逃すのではなく御隠しするのやな」
「絶対に隠し通せる場所があるならば、です。徹底的に家探しをするほど恥知らずではないと期待しても良いものか」
しばし嫌な沈黙がその場を支配した。
誰も、その「最悪の事態」が起きないとは言い切れないからだ。
「姫君と若君をそれぞれ別の屋敷に御避難頂くと言うのはどうですやろうか」
軽く咳払いして、若干自信なげな小次郎殿が意見を言う。
誰かひとりでも生き延びなければならぬ厳しい武家ならば、嫡男と当主が同時に移動しないなどというセオリーはある。
だが果たしてそこまでの状況だろうか。
おそらくは東宮になられる御方の婚約者を、摂家重鎮である一条家の跡取りや奥方を、不躾な手で握ろうとしてくるだろうか。
耳を澄ましても、中門での騒動は聞こえてこない。
御所からの煤けた臭いも、公家らしく焚きしめられたお香の香りが覆い隠している。
まるで何事もない、平和な夜のような一時。
土居侍従がうまく足止めをしているのだろう。
このまま引き下がってくれれば良し、騒ぎが大きくなるようなら、急いで対応を取らなければならない。
いや、騒ぎが起こってから動くようではおそらく遅い。
「もうし」
ここは北棟。御方様や愛姫がいらっしゃる場所と非常に近い。
話し合いは小声で、遠くまでは届かないよう気を配ってのものだったが、内容こそ伝わらなくとも、様子で何か感じるものがあったのだろう。
女房殿が小声で声を掛けてきた。
「北の御方に、何が起こっているのか聞いて参れと申し付かってまいりました」
その女房殿は、三十過ぎの若干ふっくらした美しい女性だった。
気丈に振舞ってはいるが、うっすらと白塗りの化粧をしていてさえわかる、血の気の失せた表情だ。
この人が隣の屋敷まで広大な屋敷を突っ切って行けるだろうか。
もしかすると、追手が掛かり通りを駆け抜ける必要もあるかもしれない。火事から逃れようとしている気の立った者と行き会う可能性もある。
……無理かもしれない。
そういう思いはおそらく、この時代の武家の感覚だ。
だが女性が、男が想像しているよりずっと強い生き物だと言う事を、勝千代は知っている。
青白い顔の、細かく震えてる女房殿をじっと見上げていると、やがてそのふっくらとした唇から震えが止まる。
きゅっと引き締め、何かを悟ったように丁寧に息を吸い込む様子を見て、勝千代も心を決めた。
「御方様の御意見を伺ってみましょう。個人的には三方にお別れになって、一旦隣家に避難なさることをお勧めします……小次郎殿、お願いできますか」
「……わかりました」
小次郎殿もなにがしかの決意を込めて、大きく首を上下させた。




