59-1 豊川東岸
吉田城まで南下する道中、問題は何も起こらなかった。
むしろ起こらなさすぎて拍子抜けしたぐらいだ。
勝千代は白桜丸の背に揺られながら、細川軍にとっては今こそ攻撃のし時だと思うのに、何事もなく時間が過ぎていくことに不安を感じていた。
細川軍が、この機会を見過ごすほど間抜けだとは思っていない。
城に入られるより、野戦のほうが楽につぶせるのはわかりきったことだ。
それなのに、豊川を渡る気配すらないのはどういうことか。見張らせた者たちが誰一人として戻ってこないのは、もしかすると全員始末されたとか……
勝千代が良くない方向にばかり考えていると、先を行く朝比奈殿が馬首を巡らせて寄ってくるのが見えた。
やっと敵影が見えたのか? むしろほっとしながら、軽快に馬を操る朝比奈殿を迎え入れる。
下流方面から敵が来ると言うことは、まさか吉田城に何かあったのだろうか。
「天野殿の兵が出迎えに来ております。吉田城は無事なようです」
軍議では時間をかけて、細川軍への対応を話し合った。取り急ぎ気を配るのは、無事吉田城まで戻る事だった。兵が二千に膨れ上がったとはいえ、それでも敵の方が多いのだ。
だが、何事もなくここまで戻ってくる事ができた。
今更攻めてきたとしても、敵影が見えた瞬間に走れば城に逃げ込める距離だ。
吉田城が無事だというなら、これはもしかすると……
ふと過った期待に、苦労して馬上でバランスを取っている男を横目で見た。片足が義足なので勝千代同様馬移動だ。片腕も不自由なので、手綱を引くのにも苦労している。
勘助は馬に乗るのに必死過ぎて、勝千代が見ている事に気づかなかった。
しきりと悪態をついているのが、ここまで聞こえてくる。
いや、まだ詳細はわかっていない。結論は段蔵の帰還を待つべきだろう。
その後、本当にまったく何事もなく吉田城に入った。
目をこらせば城の周りに多くの兵が配置されているが、それらはすべて今川軍のものだ。
川沿いの平城なので、川を挟めば近距離に敵陣が置けなくはない。だが、見たところ泥まみれの沼地のようになっている草原に敵兵の姿はない。
不穏を感じてそわそわしているのは勝千代だけではない。非番の兵士たちまでが、対岸に目をこらし不安そうな顔をしている。
こういう場合、警戒するべきなのは奇襲だ。
対岸からではなく、北あるいは南、もしかすると西側から攻め込んでくるかもしれない。
「お勝」
父に呼ばれて、白桜丸の手綱を喜久蔵に渡していた勝千代は振り返った。
足軽並みの軽装備なのに、誰が見てもひとかどの武将だとわかる父の巨躯を目にして、いくらか不安が和らいでくる。
それは勝千代だけではなく、居並ぶ将兵たち、足軽に至るまでの全員がそうだった。
これこそが父だ。ただそこにいるだけで、周囲を安心させる。
改めて、その存在感が誇らしく、将とはこうあるべきだという憧れが込み上げてくる。
だが同時に、どうしてもその片目の生々しい傷跡に目が向いてしまい、父がいつか命を軽々しく投げ捨ててしまうのではないかという不安が拭いきれない。
そうならない為にも、志郎衛門叔父や勝千代が後方で策を練るのは福島家として悪い方針ではないのだろう。
「下流の方を見に行こうかと思うておる」
とっさに、一緒に行くと言いそうになった。
本音を言えばそうしたかったが、どう考えても足手まといだ。物見遊山ではないのだ。
「父上は長旅にお疲れでしょう、本日はお休みになられては。万全の体調でなければ、いざというときに……」
「お勝」
改めて名を呼ばれて、その声色にはっとする。
「常に明日があるとは限らぬ」
父の脳裏にあるのが、誠九郎叔父なのだということがはっきりと分かった。
叔父に明日は来なかった。
そうか、それが父の信念か。
遠ざかっていく父の騎影を見送る。その周辺には二百の兵が付き従っている。
吉田城から下流方面といえば、海までの距離もそれほどない。見晴らしも悪くはないので、よほど暗くならない限りは敵が近づいてくるのはわかるだろうし、そうなってからでも城まで戻ってくることはできるだろう。
それでも心配になるのは、源九郎叔父の忠告があるからだ。
やはりひとり突出して駆けていくその姿に溜息を飲み込み、黒馬と父の巨躯が見えなくなるまで見送った。
父は何事もなく一刻程で戻って来た。
その無事な姿を見て、何度目かもわからないほど安堵する。
「海沿いに橋を作ろうとしておるようだ」
「橋ですか?」
真っ先に船橋か、と思ったが違った。
今川が船をつなぎ合わせ、その上に板を乗せた簡易な橋をつくることができたのは、そこの部分の川幅がそれほどでもなかったからだ。
吉田城から下流は、ここから見ただけでもかなり川幅が広がっている。
あの川を渡すだけの船が用意できないのは想像がつくが……橋か。おそらく船橋並みに簡易な造りに違いないが、今は絶対足場が悪いぞ。
確かに、橋ができて兵が簡単に東岸へ渡る事ができるなら、今川軍にとっては大いなる危機だ。だが、そんなにすぐに橋などできるものだろうか。
ついでを言うなら、父は東岸で作業をしていた人足らを「軽く」追い払ってきたそうだ。
作業を中断されてというよりも、命の危険を察知して必死で逃げた足軽たちの姿が目に浮かぶ。
「父上、とりあえず奥へ。先ほど段蔵が戻ってまいりました」
段蔵の報告を聞こうとしたところで、父の帰還を知らされたのだ。
つい父の出迎えを優先してしまったが、段蔵の報告とはつまり、勘助肝いりの兵糧断ちの件だろう。
うまくいっただろうか。




