58-6 豊川東岸 今川本陣2
「待て」
とっさに制止の言葉が出た。さもなくば、殺し合いが始まりそうな気がしたからだ。
とりあえず弥太郎は陣幕手前に控えたまま、ピクリとも動いていない。
海野殿は警戒心もあらわに、刀に手を置こうか迷うようなそぶりだ。
間違いなく海野殿は弥太郎を知っている。信濃で顔を見られたか? あるいはそれよりも前に知己だった?
もしそれが問題になるなら、ここで海野殿と顔をあわせる危険をおかすことはない気もするのだが。
「海野家は戸隠の忍び使いです」
数秒の硬直状態の後、弥太郎が感情の乗らない声でそう言って、露骨なほどの作り笑いで頬を緩めた。例の、市役所か銀行の窓口でお目に掛かれそうな笑顔だ。
だから? と勝千代が首を傾けると、海野殿が何故か驚いた顔をした。弥太郎の笑顔が、若干苦笑寄りになったのは気のせいか。
要するに気をつけろということだろうが、ここで信濃の国人である海野殿に勝千代を害する利点はない。それに何より……
「叔父上の婿入り先だ」
源九郎叔父が海野家の一員になるというのなら、そことは敵対したくない。
こういう時代だから、情報収集や諜報のために忍びを使う家は珍しくもないだろう。それについていちいち何かを思うことはない。
「信濃が一部でも細川側につかないでくれるのもありがたい」
ただでさえ統率が取れていない烏合の衆が、これ以上兵を増やすのは危険と判断したのか、数が増えれば増えるほど、集めた者同士の諍いを考慮しなければならないからか。
今のところ細川軍が、美濃や信濃から徴兵している様子はない。
国境を接している国同士は、仲がいい事のほうが珍しいのだ。何かのきっかけで揉め事が大きくなると、それこそ細川連合軍の内部分裂が加速するからだろう。
ふっと思い浮かんだのは、五百以上の兵を今川に向けてきた斯波軍だ。
斯波家が守護を務める尾張と三河は国境を接している。きっとそれほど仲は良くない。
仙人のような髭の老人の顔が脳裏に過る。松平の翁は、斯波軍が主要な将を失った事をどう見るだろう。
兵五百が全兵力の訳はないし、三河の小国の一領主が一国を丸ごと相手取るのも難しいだろうが、国境きわの城ひとつ、あるいは砦を奪うぐらいなら……「勝千代様」。
諫めるようにそう言ったのは藤次郎だ。
はっと顔を上げると、海野殿と視線が合った。
じっと観察されていたようだ。よからぬ謀を考えていたのを見抜かれたか。
「お声に出ておられました」
そっと藤次郎が教えてくれた。「えっ、恥ずかしいなもう」と呟きながら、口元に手をやる。こちとら八歳の子供だ。その年頃だとちょっとした悪戯ぐらい考えるだろう?
「お聞き逃し下さい」
勝千代がにっこりと微笑みながらそう言っても、藤次郎をはじめ側付きたちは真顔。海野殿も無表情。
ニコニコ笑っているのは勝千代と弥太郎だけだ。
……この何ともいえない空気、どうしろと?
「お勝!」
それほど離れていない場所から、父の大音声が聞こえてきた。
耳に慣れているはずの大声。だが、久々に聞くとやはりびっくりする。
「お勝ぅっ!」
声はどんどん近づいてきて、同時に海野殿の表情が迷うようなものになる。
勝千代は素早く叔父からの書簡を折りたたみ、懐深くに潜めた。
声が聞こえた時から動き始めていたのに、床几から立ち上がるよりも父が陣幕を捲る方が早かった。
「お勝!」
「はい」
そんなに何回も呼ばなくても聞こえていると、言ってやりたい気がしたが我慢した。
久々に大声で連呼され、ようやく父の帰還を実感していたからだ。
だが、客人の前でお膝抱っこは断然拒否する。ささっと下座の床几に腰を下ろすと、父は見るからに衝撃を受けたような顔をした。
当たり前だろう、もう八歳なんだぞ。
「軍議が始まる前に、話をしておきたいと思うておりました」
父が来たからには、勝千代はお役御免だよな? 朝比奈殿を従えて総大将だなんて、荷が重すぎたのだ。
期待に満ちた目で見上げたが、父もまた目をキラキラとさせて勝千代を見ていた。
「堤崩しのことは朝比奈殿から聞いた。見事な采配だ」
どうやら褒めるターンらしいと、神妙な顔をして居住まいを正す。
「あれだけの敵に囲まれても臆さず、よう踏ん張った」
「……ありがとうございます」
なんとなく嫌な予感、望まない方向に進みそうな雰囲気だ。
「これより先は父も支える故に、心おきなく指揮をとれ」
「……いやあの」
「まさかこれほど早く、お勝の采配をこの目で見る事ができようとは!」
「……」
「高天神城に戻ればすぐに元服の支度をせねばならぬ。曳馬城に御屋形様がおられるなら、喜んで烏帽子をかぶせてくださるだろう」
普段は寡黙な父の、まくしたてるような興奮した口調に、あっけにとられているのは勝千代だけではない。
御屋形様の所在を聞いたのは、まさか病身をおして遠江までいらした事への心配ではなく、元服の儀への算段をしていたからか?
呆れてぽかんと口を開きそうになり、慌てて閉ざした。あまりにも勢い良く閉ざしたので、音が出たぐらいだ。
なおもああだこうだと言い募るその顔を見て、頭を抱えたくなってくる。
百歩譲って、形式上の総大将は勝千代のままでいいとしよう。
だがどう考えても、今は元服の話をする時ではない。
川の反対側には、今なお大勢の敵がいるのだ。ひとつでも手を打ち間違えれば、一気にこの均衡は崩れてしまうだろう。
無意識のうちに眉間を揉んでいた。
いかん、これは志郎衛門叔父の癖だ。
志郎衛門叔父は長年父の相方を務めていたから、あんなに深いクレバスが眉間に出来ているのだと思う。この調子だと、いずれ勝千代も……
「お勝」
急にトーンを落とした口調で名を呼ばれて、俯けていた顔を上げる。
「腹でも痛いのか?」
押さえているのは眉間だから、痛むなら腹じゃなくて頭!
それほど前ではないのに、また同じ突っ込みが出て来そうになり、「ああ、父はこういう人だった」と改めて思った。




