58-5 豊川東岸 今川本陣1
勝千代はとっさに額に手を置いた。
いや最悪の事態というわけではない。父が言う通りなら、そもそも事は既に終わった後だ。
とりあえず父も源九郎叔父も無事で、今川家の危機に援軍まで引き連れてきてくれたのだから、終わり良ければ総て良しに……なるのか?
「お勝?」
父の太い声が、心から不思議そうに勝千代を呼ぶ。
この脳筋野郎! と思ったのは勝千代だけではないだろう。
興津の顔は引きつっているし、普段は無表情な朝比奈殿でさえ盛大に顔を顰めている。
「……いえ、御無事で何よりです」
父が信濃でしていたのは、ゲリラ活動のようなものだと思っていた。せいぜい誠九郎叔父の仇を探して仕留めるぐらいだと。
まさか勢力図を書き換えかねない大事になっているとは思わなかった。
「高遠は潰した。これで誠九郎も穏やかに眠れるだろう」
潰したとか、簡単に言わないで欲しい。高遠家は諏訪の分家だ。親族として深い関係にあったと聞いている。そんな名家を、軽く「潰した」とか。……マジやめて。
海野というのは、信濃では諏訪と張り合えるほどの勢力を持っている家だそうだ。
諏訪が高遠を救おうと兵を挙げた時、海野が待ったをかけた。
そこでまあゴタゴタ……というか、信濃あるあるの騒乱がそこかしこで連続的に巻き起こった。
つくづく、統一されていない国というのは不安定なものだ。
力をつけてきた家が互いに牽制を繰り返し、あちらこちらに潜在的な火種がある。
同時多発的に勃発したそれらの騒動は、おそらく二木の策だろう。
結果、諏訪家は高遠を救うどころではなくなった。自身の尻に火がつき、領地の幾らかを削られそうになったからだ。
……これ、大丈夫なのか? 諏訪と今川との全面戦争になるんじゃないのか。
これが信濃国内だけでの争乱であり、父が関わったことが露見しなければいいのだが、源九郎叔父が婿養子に入ったということは、それなりに周囲に知られてしまっているということだろう。八百もの兵を引き連れて今川家の援護に動いているから、ごまかしようがない。
福島家は今川の家臣だぞ。
どう考えても、御屋形様の許しなく動ける範囲を大きく逸脱している。
「いかがした? 腹でも痛むのか?」
勝千代は額を押さえたままじろりと父を睨んだ。
手を当てているのは腹ではなく頭だ……そんなどうでもいい訂正をしそうになって、結局何を言えばいいかわからなくなった。
「いえ」
心を落ち着けるべく大きく息を吸って吐く。
父の無事な姿を見る事ができて純粋に嬉しいし、居てくれるとこれ以上ないほど心強いが、今は対信濃についてまで頭を悩ませたくなかった。
「……御屋形様には一緒に謝りましょうね」
問題児を相手にしている気分でそう言ってから、いやこのタイミングで来てくれなければ今川家は敗退していたのだと思いなおした。
「父上が駆けつけてくださったおかげで、今川の名に土をつけずに済みました。それほど叱られることもないでしょう」……たぶん。
言葉にしない希望的観測の部分を察したのだろう、父の眉がまた垂れる。
「……御屋形様が曳馬城にいらしていると聞いたが」
「はい。かなり無理をなさっておいでです」
父は「そうか」と言ったきり、難しい表情で黙り込んでしまった。
勝千代は濡れた服を着替えるために席を外した。
念のためということで複数の直垂と、例のぶかぶか過ぎる小具足が用意されていて、迷いなく紺色の小紋の直垂を選んだ。戦えもしない子供に、まだ小具足は早い。
脱いだ余所行きの直垂は、気候がいいから既に半乾きになっていたが、さすがに下に着ている白の小袖はまだぐっしょりだ。
「失礼いたします。よろしいでしょうか」
着替えの途中で、陣幕の外から声をかけられた。
例の、海野という男の声だ。
直接かかわることもないと、軽い挨拶を済ませただけで、それで十分だと思っていた。
だがよく考えれば、今のところ勝千代が今川軍の総大将なのだ。もっとしっかり対応しておくべきだったかもしれない。
申し訳ないが、着替えが終わるまで外で待ってもらった。
下帯まで変える必要があったので、それなりに時間がかかってしまった。
「お待たせしました」
勝千代が謝罪すると、海野殿は「いえ、こちらこそお着替え中に申し訳ありません」と丁寧に頭を下げてきた。
やけに丁寧だし緊張しているように見える。
勝千代は首を傾げた。八歳の子供相手に、何をそんなに警戒することがあるのだろう。
海野殿はしばらく間を置いてから、頭を下げたまま口を開いた。
「源九郎殿からの書簡を預かっております」
「叔父上から?」
ますます不思議だ。書簡なら父に預けたほうが確実だ。兄弟仲が悪いのであればわかるが、父と源九郎叔父は非常に親しい間柄なのだ。
だが書簡を受け取って、中身を一読すると、その理由はすぐにわかった。
叔父は、父の左側の視界について、ひどく気にかけていた。
表面上は、今川の非常時に駆けつける事ができない不義理を詫びるものだったが、ところどころに挟まれた文章が父を心配するものであり、負傷してまだ熱があるうちから一度も休養していないこととか、本人が思っている以上に、視界が利かない事は深刻だとも忠告していた。
その通りだ。寸前のあの鬼神のような槍捌きを見てしまっては想像もできないが、父は不動でも不倒でもない。現に無理をして片目を失ったばかりではないか。
勝千代は、直接父には言えなかったのだろう叔父の気がかりを受け取った。
吉田城に戻ったらすぐにも寝床を用意して……
「勝千代殿」
不意に、緊迫した声が掛けられた。海野殿の目は警戒するように陣幕の隅に向けられている。
視線を追って、周囲にいた全員がその方向を見た。
普段通りの居姿で、静かに控えているのは弥太郎だ。
バチッと、火花が散るような音が聞こえた気がした。もちろん空耳だ。
それほど、海野殿と弥太郎の視線の交錯は険しいものだった。




