58-4 豊川4
本当マジやめて! 頼むから‼
勝千代はそれだけを念仏のように唱えていた。日本一怖いジェットコースターの先端に無理やりくくりつけられたようなものだ。恐怖が過ぎてぎゅっと目を閉じているしかない。
戦場で恐怖に震え上がり、目も開けていられないなんて武士として失格もいいところだ。
だが、この巨大な暴れ馬に乗せられているという事情を分かってほしい。
こいつはきっと馬じゃない。化け物だ。
名誉のために言っておくが、悲鳴は上げなかった。吐きもしなかった。漏らしもしなかった。
だがまあ……失神はしていたかもしれない。
はっと我に返ったとき、目の前に斯波軍の馬印があった。
父が槍の先に引っ掛けて、宙高く投げ飛ばしたのは、見覚えがある鎧兜の侍大将だ。
人間って、あんな風に吹き飛ぶんだ。
ぱちぱちと瞬きをして、冗談のように空中で回転している背中を見上げて、勝千代は妙に現実感の薄い感想を抱いた。
「大将討ち取ったり!」
いや、討ち取ったんじゃなくて、吹き飛ばしたんだよ。
揺れる馬上にいるので耳を塞ぐのが間に合わず、父の大音声をまともに至近距離で聞いてしまった。
機能不全を起こした勝千代の耳は、どうと頭から地面に落ちた斯波軍の将が上げた声も、周囲の騒動も、全く拾わなかった。
……ちょっと待て。
キーンと脳に伝わる酷い耳鳴りに顔を顰めながら、勝千代は己がいる場所をようやく認識した。
斯波軍のほぼ中央、いやこれって、五百いた軍勢を突き抜けて後方の本陣にいるんじゃないか?
周囲に今川の兵はいなかった。旗指物の家紋は同じものだが、色が違う。
聴覚の回復は唐突で、一気に騒音が押し寄せてきた。
怒声、悲鳴、剣戟の音。
鎧がガチャガチャと鳴り、刀と刀がぶつかり合い、そこかしこで荒く地面を蹴る音がする。
「殿に後れを取るな!」
聞き覚えのある声は渋沢だ。
首を巡らせて後方を見ると、父の巨躯と跳ねる黒馬の尻越しに、斯波兵をかき分け毛色の違う一団が突進してくるのが見えた。
先頭を走っているのは、場違いな直垂姿の渋沢だ。あの男の突撃気質は間違いなく父の影響だろうな。
寡兵すぎる今川軍にとれる手立ては多くない。大将首だけを狙うというのは、戦い方としては悪くない。
だがそれが、他ならぬ父のひとり駆けの特攻だというのは大問題だ。
見ろ、周囲には敵しかいない。
幸いにも父に向ってくる強者はおらず、むしろ鼻息荒い黒馬から逃げようとしているが、混乱が収まれば不利になるのは明白だ。
どんな猛将だとしても、生きている人間なのだから、一対百、いや千もあれば潰せるはずだ。……潰せるよな?
何故か父をどうやれば殺せるか考えていて、縁起でもないと慌ててその妄想を振り払う。
父はその場では止まらず、なおも駆けた。
標的は、鎧兜を身にまとっている武士だ。特に誰をというわけではなく、とりあえず武装している武士を優先して片付けようとしている。
馬をよけようと雑兵たちは逃げ惑い、それを咎めるべき武士たちもまた浮足立っている。
なるほど、今のうちに指揮官レベルを殺せるだけ殺す戦法か。
そうこうしているうちに渋沢らが追いついてきた。
今川軍の特攻兵たちは目をギラギラと滾らせていて、中には笑っている者すらいた。士気が高いというよりも狂気的にすら見える。
怒声を上げながら槍を振るい、刀を振るう。その勢いに押されて、斯波軍は明らかに腰が引けていた。
危ない、と感じたことは幾度かあった。だが勝千代がそちらを向く前に、父の槍が、あるいは馬の蹄が、時には遠方から飛んでくる矢がその者の命を刈る。
映画やドラマの中の作り物の戦いのように、あっけなく散らされていく命。
そのひとつひとつに感じるのは、憐憫でも怖れでもなく、むしろ安堵だ。
勝千代は、可能な限り父の邪魔にはならないようじっとしていた。
敵の命を紙切れのように感じ始めている己が恐ろしかった。
やがて戦いは一応の結末を迎えた。
特攻したのと同じように唐突に、父が引き上げを命じたのだ。
いいタイミングかもしれない。
武士らしい者たちはあらかた始末し、その場にいるほとんどが足軽雑兵だ。足軽たちの頭はいて、懸命に兵らの逃走を阻止しようとしているが、間に合っていない。
細川軍本隊が距離を詰めてくる前に、今川軍は引いた。
勝った負けたかで言うと、どうだろう、勝ったとは言えない。
今川軍はそのまま兵を上流側へ引き、斯波軍はその場にとどまっているからだ。数的にも、まだ大勢生き残っている。
だが指揮官の大勢が欠け、すぐに動くことはできないだろう。
今川軍は朝比奈殿の指揮で川沿いを上流方面へ。
周囲からは見えづらい部分に、勘助が川渡り用の綱を渡していて、今川軍は無事対岸に戻る事ができた。
やれやれだ。
ずぶ濡れになりながら濁流を渡り、川から十分に距離を取った所に本陣を引いた。
吉田城まではおそらく二十キロ以上あるから、怪我人多数、しかもずぶ濡れ状態での移動は無理だと判断したのだ。
しばらくして、対岸を来ていた興津らと合流した。
総勢千ほど。
豊川の西側にいる細川軍の半数以下だろうが、それでも、大勢の味方に囲まれているとほっとする。
「よく見せてください」
勝千代はじっとその髭面を見つめた。
くっきりとした二重の片方、左側の瞼からこめかみにギザギザとした深い傷跡がある。
あて布などしていないが、まだその傷は生々しく赤黒かった。
見つめているうちに、勝千代の唇がへの字に歪む。
同時に、父の眉がへにょりと下がる。
父が左目を失ったことは知っていた。だが手足を失ったというよりも軽く考えていたのかもしれない。
半分の視野を失うということは、武人として大きなハンデのはずだ。
先程の戦いで、それほどの問題があるようには感じなかったが、勝千代にはわからないところで不自由もあるだろう。
うるっと目の奥が緩んだ。ぎょっとしたように父がのけ反り、無事な方の目がうろうろと四方をさまよう。
「……いいですか、今後は常に左側に人を置いてください」
間違っても、今回のような単騎駆けは駄目だ。
強い口調でそう言うと、東岸にいた父の側付きたちが「うんうん」と首を上下させる。
その中に見知らぬ男を見つけて、視線が無意識のうちにそちらを向く。
目が合って、その男の背筋が緊張したように伸ばされた。
「海野新之助と申します」
海野? 勝千代は小さく首を傾げた。この辺りでは聞かない姓だ。新しく召し抱えたのか? いやそれにしてはいい鎧兜を身に着けている。相変わらず裸装備に近い父よりもはるかに。
「信濃でいろいろとあってな」
かなり引っ掻き回しているとは耳にした。勝千代は勝千代で大変だったので、駆けつけたくなる事情はできるだけ聞かないようにしていた。
元気ならばそれでいいと思っていた。
むしろ、誠九郎叔父の仇を取ろうと、やりすぎる事を心配していた。
そういえば、源九郎叔父の姿がない。念のためにとさっと周囲を見回して、遠くからでも目立つ禿げ頭がないのを確かめた。
何かあったのか?
「信濃でのいろいろ」というのは、まさか叔父の負傷とかそういう……
「源九郎は海野の婿養子に入ることになった」
「……は?」
「その条件で、海野家から八百の兵を借り受けて参った」
信濃の兵を連れてきているのか?
勝千代は驚愕に目を見開き、意図して状況を聞かないでいた事を後悔した。




