58-2 豊川2
そこから先は、勝千代の分野ではない。
前線指揮官である朝比奈殿にすべて丸投げ、ただ運ばれるだけのお荷物だ。
足手まといのお荷物になるのなら、残るべきではなかったと思うか?
だが、勝千代がここにいるということは、彼らを最後まで守るだろう。生き残るために諦めはしないはずだし、盾になるのは力だけではない。
そのためにも、恐怖で縮こまっているわけにはいかなかった。
勝千代は荷物となって運ばれながらも、しっかりと周囲の様子を観察し続けた。
まずは斯波軍。弓兵が多いが、残りのほとんどは長槍ではなく刀を持っている。そして思いのほか軽装だ。山地を横切ってきたためかもしれない。
斯波家といえばかつて遠江を奪い合って戦った相手だと聞いている。勝千代が生まれる少し前のことらしいから、せいぜい十年といったところか。
たとえ代替わりしているとしても、十年など一瞬だ。深い恨みや憎しみをどうこうできる歳月とは言えない。
この遠征で、せめて一太刀という感じか? あるいは、細川軍に遠江に攻め入ってもらおうとしている?
数は五百ほど。多い。
対岸にいるのも斯波軍なら、彼らは相当の戦力をこの戦につぎ込んでいる事になる。
そういえば、興津のいた砦を襲撃したのも彼らだった。
畿内の者たちは一日も早く撤退したがっているが、彼らは違うようだ。
先頭にいる大将らしき細身の男に目を向ける。
他ならぬ勝千代のいる方を指さし、指示を出している。
かなりの距離があるが……目が合った気がした。
ぞっとするような強い執念のようなものを感じた。どうしても今川を、勝千代を手に掛けたいという強い感情。
距離が近づいてくるにつれ、ますますその刺すような凝視をはっきりと肌で感じ取れるようになった。
―――あの童子の首を刈れば、百貫の褒美をやるぞ!
やけに遠くまで通る声が、そう配下の者を鼓舞するのが聞こえた。
元服前の子供の首に百貫とはすごいな。
他人事のようにそんな事を考えたのは、余裕だからではない。むしろ感じているのは真逆の感情だ。
死への恐怖は時に、時間的感覚を尋常の何倍にも感じさせるのだと知った。
今は必要ない余計なことばかり考えてしまう。
少し先に森がある。
あそこに入り込むことができれば、少なくとも飛んでくる矢を避けることはできる。
すでに今川軍側に矢傷を負ったものがかなりいる。走っているから浅手だとは言い切れない。皆の手当てを早くしたい。
勝千代を抱きあげて運ぶのは土井だ。その肩越しに、遠くにいた細川軍が距離を詰めてきたのが分かる。
対岸の興津らは……見事敵を退けたな。
彼らもまた、勝千代らを追って上流の方へ兵を進めている。
よく見れば、百名どころではない大所帯になっていた。増援と合流できたのか。
勘助がこの場にいたら、渡河できる箇所を判断できただろう。これ以上上流に向けて進むのが正しい事かもわからない。しかし少なくとも下流方面には細川軍が布陣している事はわかっているし、増水で川幅が広がっていて渡河しにくいのも聞いていた。
可能性があるのは上流方面で間違ってはいないはずだ。
だがこのまま上流へ逃げても、いずれは追いつかれてしまう。
大軍を擁する細川は奥までは追ってこないかもしれないが、軽装である斯波は手を緩めないだろう。
どうする?
今凌げているのは、こちらが少し高い位置にいる事と、できる限り早く兵を引いているからだ。
それにも限度があり、森に入れば矢は防げるが足は鈍る。
更には……
「ぐっ」
土井ががくんと何かに躓き、勝千代にまで衝撃が及んだ。
正確には躓いたのではなく、急停止した前の者にぶつかったのだ。
舌は噛まないようにしていたのに、ガリリと奥歯が軋んで咥内に血の味がした。
互いの距離を詰めて走っていたので、こればかりは仕方がない。
「前方! 敵っ!」
そう叫んだのは誰だったか。
森の中からもわらわらと、斯波の兵が姿を見せる。
今度は槍兵だ。
「槍隊、構えろ!」
朝比奈殿の怒声に、足軽たちが前に出てきて槍を前に突き出した。
ハリネズミのようにぐるりと半周、勝千代を取り囲むように堅強な防御の構えだ。
だが如何ともしがたく、敵が多い。
戦うには少なくとも同数はいるべきなのに、軽く五倍以上、目前の槍隊も五十はいる。
勝千代は、ひしと彼を抱き上げている土井の腕を叩いた。
ここで一人でも戦力を欠くのは致命的だ。勝千代を抱いて運ぶよりも、戦力として加わるべきだ。
おろしてくれという指示だったが、土井はなおいっそう腕に力を込めただけだった。
苦情を言おうとして、脳裏に真っ白な雪山の情景が過った。
死を身近に感じたからか、今と似たような状況を思い出したのだ。
勝千代を片腕に抱いた父は、槍兵を相手にどう戦った? 槍を相手に刀でしのいでいた。参考にならないだろうか。長物は懐に潜り込まれると弱いはずだ。
幸いにも正面の敵は五十ほど。こちらの半数だ。後続に追いつかれるより先に対処できるかもしれない。
問題は、素人勝千代の考えが混乱をもたらさないかだ。
現場指揮官は朝比奈殿だ。余計な口を挟めばそれが原因で一気に崩れることもあり得る。
朝比奈殿は槍隊の攻撃はいったん守りでしのぐ気のようだ。
正面の敵に向かって毅然と立つ朝比奈殿は、身構えてもいない。飛んでくる矢をよけようともしていない。鎧兜を身にまとっておらず、無防備な直垂姿なのに、その立ち姿を見て浮足立っていた周囲の者たちが落ち着きを取り戻す。
堂々としたその姿に、やはり父の事を思い出した。
朝比奈殿も父も、心臓に毛が生えているに違いない。剛毛の。
想像したのは、父の心臓に生えているもじゃもじゃの剛毛と、朝比奈殿のサラサラロングヘアだった。
「……っふ」
駄目だ。一瞬笑いそうになってしまった。
父の方が防御力高そうとか思ってはいけない。ますます頬が持ち上がり、口角が上を向く。
「勝千代様?」
恐る恐る、という風に土井に名を呼ばれた。
その声色があまりにも不安そうだったので、思わず顔を上げて土井を見た。
土井だけではなく、周囲の者たちまで驚愕の視線でこちらを見ている。朝比奈殿までも。
いや敵は正面だから! わき見は駄目!
勝千代はさっと歪んだ口元を手で覆い、軽く咳払いした。
「恐れるに足りぬ」
側で足軽がはっと息を飲んだ。
「見よ、やせ細った雑兵どもよ」
実際、正面の槍兵は農民というよりも無理に徴兵された浮浪者のようだった。身なりは貧相で、手足は細く、防具などはなく槍をにぎっているだけだ。
ただその後方で叫んでいる鎧兜の武士が何人かいて、そいつらが槍兵たちを前へ前へと押しやっている。
「……なるほど」
土井が納得したように頷いた。
朝比奈殿もその方角を見て何度か首を上下させている。
「弓を持て!」
朝比奈殿の大音声に、若干の間があってからその側付きたちが動く。
朝比奈殿だけではなく、その配下の弓兵も、すでに矢をつがえ前方に狙いを定めていた。
節約志向か? 足元に突き刺さっている斯波軍からの飛矢を再利用している。
たったの数射、朝比奈殿が矢を放つ前に、すでに槍兵の後方にいた武士たちがひっくり返っていた。見事な腕だ。
「いまだ!」
勝千代がそう叫び、慌てふためく槍兵たちを指さすのと、朝比奈殿の矢が一番後方で一番偉そうにしていた髭面の額を射抜くのとはほぼ同時だった。
メリークリスマス!
皆様に良いことがありますように。




