58-1 豊川1
「……毒?」
勝千代は、至近距離にある弥太郎の顔をまじまじと見上げ、声を潜めた。
「間違いないのか?」
「断定はできませんが、あの顔色にはそう疑いたくなります」
両手に表現しがたいドロリとしたペースト状のものを塗りたくられ、その臭いに辟易していた勝千代は、確証のないことは判断の材料にするべきではないとわかってはいても、そのまま盛大に顔を顰めた。
乾くまでは手のひらを上に向けているようにと指示されている。まるで緑色のペンキで手形を取るのかと問いたくなる間抜けな格好だ。着ているものを汚しかねないので姿勢は固定。動かせるのは頭だけ。
じわじわと染みてくる痛みから意識を逸らせるべく、管領殿のあの土気色の顔を思い出す。
「……だが、それを考えないとは思えない。側に診てくれる医者もいるだろう」
「あの顔色を見れば、真っ先に毒を疑うはずですが」
側にいる医者も敵なのか。あるいは、解毒しようにもどうしようもないところまで来ているのか。
確か小太郎は、内臓系の病ではないかと言っていた気がする。それより症状がすすんだのか、なかなか死にそうにないので毒を盛られたか。
勝千代は両手をパーの形で広げたまま、しばらく黙っていた。
忠告してやる義理はない。いや、馬を駆って遠征できるぐらいだから、実際はそこまで悪くないのかも……
再びあの顔色が脳裏に浮かぶ。
いや、明らかに死相だろうアレは。
この時代によく映る鏡は多くないから、本人は気づいていないのかもしれない。だが周囲は間違いなく、その死を強く意識しているだろう。
明らかな不調を押して遠征することを、誰も止めなかったのだろうか。
まさか周囲にそれを望まれている?
弥太郎が顔を上げたので、つられるようにその方向を見ると、渋沢が速足に近づいてきていた。
「失礼いたします。不審な者どもが近づいているようです。出立の準備を」
男前が片膝をつき、勝千代と目線を合わせるようにしてそう言うのと同時に、ガラガラと何かが崩れるような音がした。
安全に渡河するために、豊川上流の浅瀬に船橋を用意させていた。
浅瀬と言っても水量が多いので、勝千代などたぶん一瞬で押し流されてしまうだろう。
そんな荒れた川を鎧兜を着た軍勢が素早く往復するのは難しい。
安全と早さを考慮して、多少手間だが船を並べてその上に板を渡しておいた。
まずは歩兵半数が川を渡り、次いで勝千代ら、最後に残りの半数が渡るという段取りだった。
こういう時が一番敵襲への警戒が必要なので、用心のためにそうしたのだ。
だが、敵はその恰好のタイミングを突いてきた。
前半の半数がほぼほぼ渡り切ったその時、上流から丸太が大量に流れてきた。
気づいた者が声を上げる間もなく、船橋にぶつかって大破した。
渡っている最中の者たちが川に投げ出される。
馬も数頭いた。本来馬は泳ぎが達者なのだが、大量の丸太や舟橋の残骸に揉まれ、濁流に抗う事ができず流されてしまっている。
「敵襲!」
朝比奈殿の大声への反応は覿面だった。
唖然として惨状を見ていた者たちが、一斉に立ち上がり武器を構える。
すでに半数が川を渡ってしまっている。
今川軍は分断され、互いに見えているのに駆けつける事ができないという状況。
そして敵は、西の山側から姿を現した。
今もなお森からわらわらと出てくるので、はっきりとした数はわからないが、こちら側に残った百名よりは明らかに多い。
ぱたぱたとはためく旗指物は、ひどく見覚えのあるものだった。
足利ふたつ引き両紋。今川家と同じだ。
「斯波家です」
渋沢の声に、はっと我に返る。そうだよな、どう見ても敵だよな。
だがあっちもふたつ引き両紋、こっちもふたつ引き両紋。なんというか……
「伏せてください!」
そう警告が飛んでくる前に、頭をぐいと押さえつけられ地面に伏せた。
この場所は川岸の少し高くなった部分で、格好の的だ。
だが、飛んで来た矢は勝千代の周辺まで届かず、手前の土手の部分に突き立っている。
「喜久蔵、勝千代様を対岸へ」
コントロールが悪くて助かったと安堵の息をついていると、渋沢が逢坂喜久蔵にそう指示を出した。
いや待て。船橋は流れてしまった。どうやってこの川を渡れと?
ぶひひん……と白桜丸が嘶いた。
目立つ大きな馬だから、こちらも矢の的になりそうだったが、見たところ怪我はしていない。
……えっ、馬で渡れってこと?
ぎょっとして目を見開いたのは勝千代だけではない、護衛組の面々もこわばった表情で馬と川とを交互に見ている。
寸前に濁流に巻き込まれ流されてしまった馬たちを見ているだけに、ちょっとそれは危ないのではと思ってしまう。
同時に、ひゅん、と近場の石に矢が飛んできて跳ね返った。
飛矢の量は少なくなっているが、なくなってはいない。そして明確に勝千代の周辺に的を絞ってきている。
数では負ける。
背水の陣で位置的にも良くない。
さっと周囲を見回した。
遠くの対岸でも敵に襲われ応戦しているのが見て取れた。
勝千代はここまできてようやく、強い身の危険を覚えた。
自身だけではない。今川軍自体が壊滅するかもしれないという危機感だ。
どうする、どうすればいい。
思考がうまくまとまらない。
やがて今来た道の方から、大軍が軍旗を掲げて迫ってくるのが見えた。
数などわからないが、どんなに少なく見積もっても百二百ではない。
「細川軍です」
唸るような渋沢の声に、勝千代も覚悟を決める。行動を迷っていては、ここで皆が死ぬ。
細川軍はまだ遠い。
取り急ぎ目の前の斯波軍をなんとかしなければ。
「川沿いに上流方向へ」
「いや、しかし」
「対岸の興津殿との合流は無理だ。皆で生き残る方法を考える」
きっぱりとそう言うと、渋沢は口ごもった。
白桜丸の手綱を握った喜久蔵が、ちらりと川の様子を見て「今ならまだ渡れます」と言ってくる。
だが行かない。
見たところ東岸の敵は寡兵だ。無事あちらに渡ることができれば、助かるだろう。
しかしそれは同時に、西岸にいる者たちを殿に、ひとり敗走するということだ。たとえ足手まといになるのだとしても、そんなことは絶対にできない。
「皆を一か所に固めよ。分散して刈られるな。飛んでくる矢よりも、斯波軍本隊を警戒」
「……はっ!」
真っ先に、勢いよくそう返答したのは谷だった。
谷はきっと泳げないw




