57-6 西三河 砥鹿神社 和睦交渉6
勢いよく地面に叩きつけられたのに痛みが来なかったのは、吹き飛んだ先に三好殿がいたからだ。
管領殿は勝千代を突き飛ばし、邪魔な三好殿の方へ押しやった……というのは穏やか過ぎる表現だ。
帝の書簡を中身だけ奪い取り、仁王立ちになっている。
勝千代は三好殿にもまた脇に押されて、硬い地面にころんと転がった。
今度こそ、自転車でこけたような痛みが身体の右半分に走った。
転ぶ勢いを利用して中腰の姿勢に持って行けたのは、勝千代にしてはよくやったと思う。
だが起き上がる事ができても、非力な子供にそれ以上の対処は無理だった。
たとえばこの場で勝千代を始末するなど、相手は大人ふたりなのだから至極簡単なことだ。
三好殿の肩越しに、仁王立ちの管領殿を見上げる。
相変わらず紫がかった黒ずんだ顔だ。死人のような、独特の顔色を険しくしかめ、握り込んだ書簡を見下ろしている。
ガッと、硬いものが地面に食い込んだ。
それが縞模様の羽根を持つ矢だと認識できたのは、仁王立ちの管領殿がぐらりと斜めに傾いでからだ。兜の垂れの部分に、矢がらの根元まで突き刺さっている。
そこに向かう視線の途中で、三好殿が腰に手を持って行くのを見た。
駄目だ、と思ったのは直感だ。
味方同士で潰しあってくれるのはいっこうに構わないが、非戦の約定を交わしたこの場ではやめてもらいたい。今川のはかりごとだということにされかねないからだ。
勝千代がその籠手の部分を引っ張るのと、中腰の三好殿がはっとしたように刀の柄から手を離すのは同時だった。
ひゅん、と空気を切る音が複数。
再び地面と、三宝を乗せていた祭壇のようなものにも突き刺さる。
顔を上げ周囲を見回した三好殿が、無意識なのだろうか、勝千代の盾になるような姿勢で身構える。
勝千代は再び、目の前の男の腕を引いた。
「うちの者です」
少し距離がある場所に朝比奈殿がいて、矢をつがえた体勢でこちらを見ている。
物凄い速さで走り寄ってくるのは渋沢と谷ら護衛組だ。
朝比奈殿の背後では今川の者たちが警戒もあらわに腰の刀を抜いており、細川軍はそこまできてようやく立ち上がって反応しはじめた。
一触即発だ。
だがここでは良くない。混戦になるとどうしても被害は多くなる。
勝千代は立ち上がり、片膝をついたままの三好殿の肩に手を置いた。
その反りかえった兜の吹き返しに顔を寄せる。
「帝は既に崩御されておられます」
三好殿だけに聞こえるように素早くもう一言。
「管領殿は御存知のようです。お気を付けください」
そう言うと同時に、後方からひょいと腹に腕を回されて抱え上げられた。
籠手などの固い防具がないので、男前渋沢だろうか。
三好殿は驚愕の表情で勝千代を見送った。
遠ざかるその強い凝視に、軽く手を上げて別れの挨拶とする。
勝千代は、神社の鳥居のところまで戻って来てから、丁寧に下ろされた。
それまで小脇に抱えていたのは直垂を着た渋沢だ。
石畳の通路に己の足で立ち、警戒する谷らの肩越しに陣幕で囲まれた中央部分にいまだ立ち尽くす男たちを振り返る。
一瞬、管領殿が握りしめた書簡をどうするべきかと迷った。
あの様子だと、偽書だと言い張るのだろう。くしゃっと手で握りつぶしているし。
伊勢殿に踊らされたと激怒するのか、持ち出したと言い張っていた詔書を取り戻した事にするのか。
実際は将軍宣下に関わる詔書ではないので、あの書簡にさほどの価値はない。
だがあれを偽書だと朝廷に差し出したら、どえらいことになる。
亡き帝の筆跡を知る者の目に触れると、管領殿は逆に窮地に立たされるだろう。
「……引き上げよう」
とりあえず、今川家がなすべき主張はできた。
大逆の徒であるとされる伊勢殿は死に、持ち出したとされる書簡も押し付け……もとい、穏便とは言えないが譲渡することができた。
これで戦の大義名分は義宗様と、こちらから宣戦布告をしたらしい事だが、細川連合軍にとっては引くタイミングとして悪くないと思う。
このまま内部分裂をするよりは、早期に撤退するほうがまだいいだろう。
だが、面子の問題でそうも言っていられないのはわかる。
ここまで大々的に遠征してきたのに、今川軍とはさほど槍を交えることなく、ただの川の氾濫に巻き込まれ兵を大勢失っただけなのだ。
「お怪我は」
そう問いかけてくるのは、まだ矢をつがえたままの朝比奈殿だ。
直垂で弓を引いているので、鍛え上げられた腕がむき出しになっている。
「おかげさまで」
勝千代は朝比奈殿の視線を追って、その弓がいまだ管領殿の頭部に照準を合わせているのを見て取った。
ここでそれは信義にもとると心得ているとは思うが、思い切りのいい男でもあるので、書簡をひったくって勝千代を突き飛ばした時点で、管領殿への殺意を隠すつもりはなくなったのだろう。
怪我などなかったのだからと取りなそうとして、急にひりひりと半身が痛み始めた。
どこかを痛めたというよりは、転んでいろんなところを擦りむいたようだ。
「吉田城に戻りましょう」
殺気立つ大人たちに向かって至極冷静にそう言ってから、最後にちらりと地面に転がった伊勢殿の首に目を向けた。
あれもどうするべきかと迷ったのは、一瞬だけ。
わざわざ拾って持ち帰るよりも、このままにしておく方が、見つけた誰かに丁寧に弔われるだろう。
墓にしてもらえるか、そのあたりの土の下に埋められるかはわからない。
「憐れなものですな」
路端の石のように転がった首を見て、そう言ったのは勘助だ。
室町幕府政所執事にはそぐわない末路だと言いたいのだろう。
だが、死んでしまい首だけになった伊勢殿が、今更そんなことを気にするだろうか。
「そうか?」
勝千代はひりつく両手を見下ろして、じわじわと血が滲み始めているのに顔を顰めた。
「今頃は、管領殿に一杯食わせたと笑っておるやもしれぬぞ」
見たところ、どちらが騙し騙されたのかはっきりとしないし、お互いに仕掛けあっていたのだろうが。
「そのほうの策もうまくいけば管領殿は怒り心頭だろう。早う首尾を聞きたいものだ」
「某、失敗など致しませぬ」
憮然とした勘助の傷だらけの顔を見上げ、「曳馬城では負け戦だったじゃないか」と言ってやろうとして、さすがにやめた。
どう考えても和睦の交渉ではないですけど、タイトル変えると面倒……もとい、ややこしくなりそうなので。




