57-5 西三河 砥鹿神社 和睦交渉5
いや、お見合い番組じゃないんだから。
勝千代は唇の端が引きつりそうになるのを堪えた。こんなところで笑ってはいけない。だが想像してしまったのは仕方がない。
大人ふたりに手を差し出されて噴き出す子供。
その情景を想像したらまた笑いたくなってきた。我慢だ我慢。
「……何がおかしい」
だが頬のゆるみに気づかれてしまったようで、管領殿から苦みの混じった叱責の声が上がった。
「申し訳ございません。やはり誤解があるようです」
勝千代は一度、両手で持っていた書簡を恭しく目上に掲げた。
「福島殿!」
何をしようとしているのか察したのだろう、慌てたような声で制止してきたのは三好殿だ。
勝千代は構わず、封書の折れ曲がった上下を開いた。
「待て」
管領殿まで止めようとするが、勝千代は躊躇なく東雲をして「中身を見ると効果は半減する」という有難い書簡を開封した。
ぱさり、と薄く上等の紙が風にはためいた。分厚い紙で包まれていた時にはわからなかったが、けっこうな長さのものが折りたたまれていた。
危ない。地面に着くのはさすがにまずい。
内容については、たわいもないものだと思う。開けたら御利益がないそうだから。だが、他ならぬ寒月様から戻されたものだ。今は亡き(生きているとされている)帝の御直筆なのは間違いないだろう。
びゅうと風の音がした。
鎮守の森の木々が揺れ、ザワリと空気そのものが騒いだようにすら感じた。
内容にざっと目を通した勝千代は、ここでつまびらかにするのは少々マズかったかもしれないと少し後悔した。何故なら、内容が極めて私的なものだったからだ。
美しい手で延々と描かれているのは……諸々に対する愚痴だ。ままならない現状への不満だ。世が乱れ、その安寧を祈るしかない御自身への失望が、もっとも多く綴られている。
つまりは延々と長く、とつとつと胸につまされる、帝の御心の吐露。
それを思う存分書き綴ったものだった。
送り先である寒月様の名が記されているわけでもなく、特定の誰かを責めているわけでもない。こんな私的な愚痴ですら、余人の目に触れられること前提に気を使って書かれている。帝の御立場とはよほどに窮屈なものなのだろう。
東雲は「いざとなったら敵に叩きつけろ」と言っていたが、これって今川側にもダメージが入らないか?
つまりは戦そのものが、世の乱れを憂いておられる帝の御心に背いているとも言えるからだ。
勝千代は一瞬どうしたものかとフリーズした。
だが気を取り直して、この書簡が彼らが求めていた将軍宣下に関わる詔の類ではないと示して見せようとして……その場の空気の違いに気づいた。
ずいぶんと低い位置に、照り輝く兜の前立てがある。それが管領殿のものだと認識すると同時に、「あれ?」と首を傾ける。
これまでは細川側の武士たちも、今川側の武士たちも、互いに牽制するかのように鋭い目でにらみ合っていたはずだ。
だが、今この場に立っているのは勝千代だけだった。
敵も味方も合わせて五百弱。その全員、意味が分かっているとは思えないが、遠くにいる足軽までもの全員が、その場に武器を置き両膝両手を地面についている。
ぱたぱたと、垂れた紙が揺れる。
同じぐらい激しく、勝千代の直垂の袖も揺れている。
それぞれの色の旗指物も、張った陣幕も、周囲の森の木々も。
何もかもが一斉に攫われるような勢いで、風に巻かれた。
こ、これは同じように膝をついて礼をとるべきか?
勝千代は空気を読みたくなる日本人気質で、無性に周囲と同じ行動をとりたくなった。
ただ突っ立っているだけで、とてつもなくいけない事をしているような気持ちになる。
少なくとも管領殿より上の立場なわけがない。だから膝をついて頭を下げるべきだ。
……いや落ち着け。
勝千代はひそかに深呼吸した。
皆が頭を下げているのは勝千代にではない。この手から飛んでいきそうな薄い紙切れ一枚に対してだ。
落ち着けと何度も心に言い聞かせ、周囲に聞こえないように喉を鳴らす。
まずは管領殿に立ってくれと言うべきだろう。それから……
空回りする思考でなんとか状況の把握に努める。
ここで今川の立場を語るのは僭越だろう。
帝の威を借る狐よと反感を買い、生意気な小僧だと嫌悪され、空気を読めない奴だとも言われそうだ。
だがいい機会ではある。
「これは詔ではありませんよ」
勝千代は、ここまでくれば空気を読めない子供を貫こうと、小首を傾げたまま言った。
甲高い声はやはり場違いで、誰一人ピクリとも反応しないのが居たたまれない。
勝千代の視線は無意識のうちに、黒い生首の方へ向いた。
無念を露わにした伊勢殿の顔が、不気味ににやりと笑った気がした。
……いや気のせいだ。死者には何もできない。
「伊勢殿の最期のあがきに騙されましたね」
それと、公家の上の方の誰かだな。
「御宸翰であることは確かですが、世を憂い民の安寧を願う帝の御心が綴られているだけです」
続く沈黙の中、更にバタバタと強風が吹きつけてきた。
「……そんなはずは」
沈黙を破り第一声を発したのは三好殿だった。
「三好殿は、どう聞いて伊勢殿を追ってこられましたか?」
永遠に誰も喋らないんじゃないかと危惧していた勝千代は、強い安堵の思いを隠して三好殿を見下ろす。
伊勢殿の首の側で両膝をついた男は、まだ地面に顔を向けたままで、勝千代を……いや、書簡を直視しようとはしなかった。
「帝からの直接の御下知がありましたか?」
ここは間違っても遠征とか、今川に攻め込もうとしたとか言ってはいけない。
あくまでも細川軍は、義宗様と伊勢殿とを大逆の徒として兵を挙げたのだ。
「とんでもない。ただ、次なる将軍を任ずる詔書を、御手ずからお書きになられたのだが、それを伊勢に奪われたと。取り戻した者にこそ新将軍を任せるに足ると」
まあ、そんな事だろうと思った。
誰だ、百戦錬磨の武士たちを躍らせた口達者は。
脳裏に浮かんだのは、叡山で勝千代らを追い払った公家連中だ。武家はえてしてああいう輩が苦手だ。あの勢いで押し切られたのだろうか。……いや、管領殿ともあろうものが、やすやすと乗せられるにはまだ別の要因があるに違いない。
「そもそも、詔が直筆であるなどあり得るのですか? 通常はその職責の方がいらっしゃるでしょう」
帝がもし暗殺されていて、裏で糸を引いていたのが管領殿や三好殿らなら、わざわざ踊らされることもなかったのではないか。
帝が生きている風に語る連中を、逆に追い詰めることもできたはずだ。
つまりはやはり、恐れ多くも帝を弑したのは伊勢殿か。あるいは口達者な誰かか。
すべてが伊勢殿のはかりごとというよりも、その揚げ足を引っ張って始末しようとした策士がどこかにいる気がする。
勝千代はふと、嫌な予感を覚えた。
無意識のうちに視線が、一番近くにいる男に向く。
兜の下からのぞく土気色の顔はひどく渋い。そしてその目。鋼のように強く、昏く、勝千代にはあずかり知らぬ何かがそこにある。
ぞわり、と全身の毛という毛が逆立った気がした。
「勝千代様!」
少し離れた位置から、勝千代の名を叫ぶ声。
何が起こったかわからないうちに、ふわりと足元が浮いた。
視界が回転する。
同時に衝撃が背中と後頭部を襲う。
痛みはなかった。
ただ、手に握っていたはずの書簡はなく、視線の先では伊勢殿の首が三宝から転がり落ちるのが見えた。




