57-3 西三河 砥鹿神社 和睦交渉3
「来ましたな」のこのこと。
後半部分のつぶやきは、声になってはいないが筒抜けだ。
「ここで全員の首を刈り取ってしまいましょう」
勝千代はドン引きした周囲のようには顔色を変えず、こぼれそうになる溜息を飲み込んだ。
「やはり毒の方がいいでしょうか。いっそこちらは毒消しを飲んでおいて……」
怖いよ、この男。勘助じゃなく悪助にでも改名するべきなんじゃないか。
そもそも、ここで出された茶を飲む者などいないだろう。
勝千代は無言のまま、真後ろにいる男にデコピンをしておいた。もちろん頭の中だけでだけど。
伊勢殿の首検めは、さっそく翌日にと話が進んだ。
問題は場所だ。こういう場合は両軍の中間点と相場がきまっているそうだが、真ん中部分はぬかるみ足場が悪いので、水のきていない上流の神社での対面になった。
しかしここ、豊川より西側になるので、おもいっきり敵地だ。
つまりは、場所について細川側の意見を受け入れた形になる。
ただしお互いに軍勢は二百のみと決め、他の兵とは十分に距離をとるというのが大前提だ。
装束も、少なくともこちらから仕掛ける意思はないという主張の為に、小具足から直垂に。元服していないので烏帽子はない。
勝千代に倣って、朝比奈殿をはじめ主要な面々も身なりは改めている。戦に来ているのに、皆一張羅は持ってきているんだな。気をまわして運んでいるのは側付きたちの誰かだろうけど。
対して、近づいてくる一団は皆武装していた。
物々しい鎧兜に旗指物、中には異様なほどの長さの槍を持っている者もいる。
視界の端で、谷ら武装組がごそごそと身動きをしているのが見てとれた。
実戦になれば、まず戦うのは彼らだ。警戒するのもわかる。
しかも、向かってくるのは二百人より明らかに多い。今川家としては苦情を言ってもいい約定違反だ。
だが、よく見れば旗指物は二種類。同じ家紋なのに色が違う。
二百の随員ということは、両細川で百人ずつ……とは調整できなかったようだ。
「……追加の兵を呼び寄せますか」
朝比奈殿にそう問われて、「いえ」と首を振る。
ここで兵を増やしても、状況が切迫するだけだ。
勝千代は近づいてくる一団をじっと見つめ、うっすらと唇をほころばせた。
「さすがに三百人を引き連れてくるほど厚顔無恥ではなかったようですし、対応は可能でしょう。我々はこのままで」
「はい」
朝比奈殿は静かに首を上下させたが、その手が無意識だろうか、刀の柄に触れている。
よく見れば渋沢などは腰を低くしているし、興津も渋い表情で両足を肩幅に開いて身構えている。
呑気な顔をしているのは勘助と天野殿ぐらいなもので……いや、少なくとも勘助は、雑言をばらまきながらも内心で緊張しているのは伝わってくる。
勝千代は、ひそかに深呼吸した。
大前提として、相手にこの緊張が伝わってはならない。
焦っては、交渉事がうまくいくはずはない。
第一声は何を言おう。どういう言葉が最適だろう。
そんな事を考えながら、鳥居の前で待ち構えていると、近づいて来た細川勢たちは最初は速足に迫ってきていたが、次第にその足取りが鈍くなり、やがて参道に入るあたりで完全に立ち止まってしまった。
先頭を歩く槍持ちだけではない、続く騎馬も、旗指物を背負った兵たちも……意図せず足が止まった感じに見えた。
張り上げてようやく声が届く程度の距離だ。
勝千代は小さく首を傾けた。
相手も警戒しているのだろうか。
あるいはこれだけの距離をあけて向かい合うのが正式な作法なのかもしれない。
双方睨みあって数分。細川陣営の方から一騎の騎馬が進み出た。
ひと際見事な意匠の、緑というよりは青に近い鎧兜の武将だ。
何か口上があるのかと思いきや、騎馬は従者もなく単独でパカパカと近づいて来た。
「……誰かわかりますか」
勝千代の問いに答える事ができる者はいなかった。
まさか管領殿ご本人なわけはない。そう思わなくもないが、否定する要素もない。
困ってじっと見ていると、その表情が分かるほど距離が近くなった。
毅然と背筋を伸ばし、眼光鋭く勝千代を見ている。
五十代半ば、いや六十代に差し掛かったあたりか。豊かに蓄えられた髭に白い物が混じり、ひどく……顔色が良くない。
背筋がまっすぐに伸び、不自由なく馬の手綱を握っているのに、兜の下からのぞき見える顔色だけが異様だった。
赤黒い。紫色と言ってもいい。……肝臓が悪いのか?
「お待ちを」
視線ががっちりと組みあって、顔色の悪い男が何かを言おうとした瞬間、ひどく通りの良い声が細川陣営の方から響いてきた。
先の武士が仮に京兆の管領殿なら、呼び止めたのは阿波氏の武将だろうか。
当然だが勝千代には誰かわからない。おそらく三十前後の有能そうな男だ。
新たな葦毛の馬は軽快な蹄の音をたてて歩を進め、あっという間に二頭の馬が並んだ。
勝千代はその男の面相をまじまじと眺め、平日の夜にバーに居そうなちょい悪系のイケメンと、自身でもよくわからないカテゴライズをした。
二人はものすごく険悪な雰囲気でじろじろと睨みあい、やがて薄い唇の上に形よく髭を蓄えた男が、響きの良い声で名乗りを上げた。
「某、阿波細川家家臣三好筑前守と申す」
にっこり。
年上の、かつ味方のはずの顔色の悪い武将には毒々しい敵意を向けていたのに、勝千代に向ける視線は打って変わってフレンドリーだった。
その笑顔には、誰もの目を引く明るさと温かみがあり、もし寸前までの射殺しかねない目つきを見ていなければ、ただの気のいい男だと思ってしまったかもしれない。
だが、じっと勝千代を見上げてくるその視線は、にこやかさの仮面をかぶった試すようなものだ。
「勝千代殿」
一歩足を踏み出した勝千代を、朝比奈殿が止めようとする。
勝千代はそちらに目は向けず、手に持っていた扇子を懐に差し、脇の小刀に一瞬だけ触れた。
大丈夫。
無言のその意思を汲んでくれたのか、それ以上引き留められることはなかった。




