57-2 東三河 吉田城 和睦交渉2
状況の把握を待っていては、細川の時間稼ぎに付き合うことになってしまう。
和睦が不成立とわかった瞬間から、今川軍は次なる動きを始めた。
使者たち? もちろん「丁寧に」送り返させてもらった。
こちらも興津を返してもらえたしね。
無事怪我もなく戻って来た興津の話は、かなり興味深かった。
こういう場合の特使というのは命の危険があるものだが、興津もかなり危うかったそうだ。
それを助けてくれたのは、ごろごろといる中小の国人領主たち。今川とは直接かかわりのない畿内の者たちが主となって、闇討ちのような事にはならないよう見張っていてくれた。
利害関係とはかけ離れた国からの助力は、意外だと言うよりも……一刻も早くこの戦を終わらせ帰国したいのがひしひしと伝わってくる。
ある程度把握はしていたが、細川連合は一枚岩どころではなく、二枚岩、いや瓦礫を何とか積み上げてできた即席の軍勢だった。大きな派閥としては両細川のふたつがあげられるが、それ以外の者たちの方が圧倒的に多い。
両細川の内部分裂が起これば、無理やり同じ船に乗せられ居心地が悪い思いをしている者たちは手を引くだろう。
引き上げるなら兵糧の援助を持ちかける、というのもいい手かもしれない。
やはりまずは、「細川本陣」と名乗っている所がふたつあるという、思いっきり急所にしか見えないそのアンバランスな部分を突くところからだな。
弥九郎殿が使者として吉田城に来たのは、露骨に嫌がらせの一環だろう。
その嫌がらせの対象は今川にではなく、おそらくは京兆家に対して? あるいは細川京兆家内部の揉め事が関係しているのかもしれない。
帰すついでに、弥九郎殿ではなくその両脇で制止役をしていた男に、管領殿への書簡を託した。
弥九郎殿の目の前で渡したのはわざとだ。
声高い苦情はもちろん無視した。
密書の内容については、「思わぬ」水害に巻き込まれたことへの丁寧なお見舞いと、彼らが追っている伊勢殿の首は悪くなってきたので処分しようと思うが検分するかとの誘いだ。
和睦と言われれば否と答えざるを得ないとしても、帝からの勅令で伊勢殿を追うという大義名分を掲げている以上、無視できない文言のはずだ。
片方の細川にしか書簡を送らなかった。
声の大きな弥九郎殿が、このことを阿波細川陣営に筒抜けにしてくれるだろう。
どんな内容だったと問い詰めてくるのは確実。
お互いにぎくしゃくとした仲だから、今川の策かもしれないと察しがついても、不審を払拭するのは難しいはずだ。
面白い話はまだある。細川京兆家の内紛関係だ。
遠征中なので表だったものではないが、どうやら体調がすぐれない管領殿の周辺で、露骨に権力闘争が勃発しているそうだ。
細川家は複数の国を保有しているが、それを分国と呼ばれる形で統治している。それぞれの国を一門衆や家臣に任せると言う形状だ。
直轄は距離的な問題で難しいのだとしても、権限を完全に分けるというこの方法は、時代を経るごとにうまく機能しなくなった。
その最たる問題点の発露が、本家京兆家と対立する阿波細川家だ。典厩家も細川分家のひとつにあたる。
それと似たような形態の統治を、本家の内々でも取っており、管領殿の体調不安が表に出て来てから、これまでになく家臣の権限が増してきているのだとか。
当主が倒れ、次代に引き継ぐまでの不安定な時期だ。
部外者は遠くから、うまく次代に移行できるかと眺めているだけでいいのだが、当の本人はそうも言っていられない。
信頼していた者たちが、醜い奪い合いを始める。他ならぬ自身の死を前提にしてだ。
これまで築き上げてきたものが、まだ生きているうちから踏みにじられていくのを見るのは、さぞ辛いだろう。
北条もこんな感じで今川家を見ていて、諍いをねらったのだろうな。
勝千代は駿府で捕らえたままの童顔坊主の顔を思い出しながら、まったくもって他人事ではない状況に思いを馳せた。
そう、敵としての目線で見れば、そこを突かずにどこを突くと言いたくなるほど絶好の攻撃ポイントだ。
「使者殿の御父上は、現在の典厩家当主、今回の出征には参加なさっておられませんが、管領殿とは近しい親族です。使者殿の兄君を管領殿の養子にするほどだとか」
勝千代は井戸端で手を洗いながら、東屋の腰掛に偉そうな態度で座る男を横目でチラ見した。
思わず顔を顰めたくなる引き笑いを響かせ、傷だらけの顔面を歪めしたり顔をしているのは勘助だ。
引きこもりなくせに遠国の事情に精通しているのもおかしな話だが、逆をいえば、ただ情報を集める事だけに邁進する四年間だったと言っていいのかもしれない。
何度か見た事のある、苦労性そうなあの忍び。直接かかわったことはないが、勘助の命令であちこちに飛ばされているのは知っている。働かせすぎて逆心を抱かれる前に、一度労ってやったほうがいい気がしてきた。
「親子で後方担当、兵糧の手配などを請け負っておられます。うまく出征を子ひとりで済ませましたので、管領殿が無事戻られるまでに勢力拡大を狙っておいででしょう」
分家の従弟なのだろう? 親しい間柄のはずなのに……いや、だからこそ欲が出るのか。
勝千代は小さく首を振って、軽く嘆息するにとどめた。
「兵糧方はこれまでは香西殿が務めていた役割です。なんぞ耳に流し込んで余計なことを言った者がいるようです」
つまりなんだ。管領殿は家臣とうまくいっていないのか。
人生の最期の大舞台になるかもしれない出征で、信頼できない者たちに囲まれるなどさぞ苦労しているだろう。
「そこで、陸からの兵糧が遅れに遅れ、船の輸送も止めてみましょう。さてどうなるか」
「性格悪いなお前」
「そうですか? 同じことをお考えなのでは?」
勝千代が考えていたのはせいぜい、兵糧が届かない事への不満を雑兵らから騒ぎ立てさせ、戦どころではなくすことぐらいだ。
敵の内側から不審を煽って崩壊させようなどと……まあ少しは考えたが、そこまで手が届くとは思っていない。
そもそも、遠くの騒動に口を挟む前に、目の前の敵を何とかしたいのだ。だが……
「……具体的な方法は?」
勝千代の問いに、ぱっと勘助の表情が明るくなった。
露悪的な物言いをし、やることなすことえげつない男だが、こういうところを見るとまだ若いのだと感じさせる。
勘助には片足がない。
腕や目はともかくとして、自力で戦場を駆ける事ができないのは、武士として致命的と言える欠陥だ。
野心旺盛な彼が、自身の武士としての栄達に絶望しているのは知っている。
確かに、父のような前線で槍働きをする武将にはなれないだろう。
だからこそ、できる事をしようとしている。
その意欲が、悪い方向に向かわない事を祈りたい。
……いやこの流れだと、勝千代が後々まで面倒を見なくてはならないのか?
脳裏をよぎったのは、勘助の苦労性の忍びの顔だ。
自身が動けないからと、代わりに手足のように振り回されている。
いやいやいや、あんな薄幸そうな表情をするようにはなりたくないぞ。




