56-8 東三河 吉田城4
和睦交渉をするなら今しかない。
眠れない一晩を、勝千代は細川本陣へ送る書簡の文面をこねくり回すのに使った。
この時代、フリーダムなようでいて書簡の形式は結構定まっている。言葉選びのひとつで相手を激怒させ、まとまるはずの和睦がまとまらないなんてことはよくあるらしい。
文面をひとりで考え、そんなつもりはなくとも問題があっても困るから、朝比奈殿をはじめ幾人かに草案をお願いしたのだが……皆真面目にやる気はあるのか? 碌なものが戻ってこなかった。
そろいもそろって、どうしてそんなに上から目線なんだ。勝千代を持ち上げる一文は絶対に入れないといけないルールでもあるのか?
絶対に勝千代を褒めそうにない勘助にも頼んでみたが、やめておけばよかった。
あれは天性の煽り屋だ。井伊殿のように、にこやかな外面を取り繕ってさえいない。あんなものをそのまま出したら、運よく温厚な相手にあたったとしても、開戦待ったなしだろう。
もうすぐ夜が明ける。
白み始めた空からは、いまだに雨が降り注いでいるが、昨日一日中降り続いていた時よりは心なしか雨足が弱く、空も明るい。
勝千代は、仕上げの一行を書き終えてから筆を置いた。
そろそろ覚悟を決めなければならない。この洪水でどれだけの人死にが出ただろう。
ほっと息を吐くと同時に、覚えのある青臭い臭いが鼻腔を突いた。
小さな音をたてつつ入室してきた弥太郎は、湯気の立つ湯飲みを丸い盆にのせていた。
薬湯の横に握り飯というのはどうかと思う。せめて白湯だろう。
抗議をしようとして、「ぐう」と小さく腹が鳴った。
「お味方の被害はほとんどありません。馬と人夫がいくらか足を折った程度だとのことです」
勝千代が渋々と握り飯を口に入れると、弥太郎はようやくそう報告してきた。
口に飯が詰まっているので、それについての言葉を返すことができず、仕方がないので薬湯で流し込んだ。苦い。
「……水は町へは来なかったか?」
「端の方にはいくらか浸かったところもあるようですが、もとより雨が多いとあのあたりは毎年水が来るそうです。今年も米が駄目になったと嘆いておりますが、ほんの一部だけです」
対岸の田畑は全滅だろう。夕べの惨状を思い出して深く息を吐き、「そうか」と返す。
この周辺の印象が田園風景ではなく草原なのは、もとより豊川の氾濫が多い地域だからだろう。毎年水で流されるなど、農作に適した土地とはいえないだろう。それでも苦労して開墾したところもあっただろうに。
農民にとって天敵だろう水害を、意図して起こした……大勢の流された細川軍の兵もだが、現地民の勝千代に対する印象は地を這うようなものだろうな。
そんな事を考えながら握り飯を飲み込み、厠に行こうと立ち上がる。
その瞬間ボキと膝が鳴った。長時間座っていたせいだろうが、まだ十歳に満たない歳でこれはない。
勝千代は顔を顰め、軽く腰に手を添えた。四十路男時代の腰痛を思い出してしまったのだ。
じーっと見つめられているのを感じ、弥太郎に視線を向ける。……まだ腰は無事だぞ。
夜明け前の薄暗い廊下を歩く。
早朝にもかかわらず、四方八方からの視線を感じる。
人払いさせるか? いや見られているだけだし。
不意にバタン! と大きな音がしてそちらを見ると、木襖が枠から外れて倒れていた。その向こうで立ち尽くしているのは見覚えのない何人かの大人たち。目が合って、さっと顔を伏せられた。……なんでだよ。
「御使者の方々です」
ああうん、その説明はいらない。
勝千代はちらりと弥太郎を見てから、すっとそのまま通り過ぎた。
今川軍の主要な面々の顔は覚えている。見覚えがないということは、そういうことだ。
昨日から続々と続いている近隣諸家の使者たちは、最初は中堅どころだった使者が家老レベルになり、一門衆レベルになり、深夜帯からは当主が直々に面会を求めていると聞いている。
だが会うつもりはない。逆に聞きたいが、会ってどうしろと?
この先は細川軍との和睦に向けて神経を集中させたい。すり寄ってくる連中の相手はその後でいい。
「おお、勝千代殿」
東屋に併設した井戸端で手をごしごし洗っていると、そう元気な声が掛けられた。
聞き覚えのない声だ。
知らない大人とは喋っちゃいけないんだぞ。
勝千代は濡れた手を土井に拭ってもらい、顔も上げずやり過ごそうとした。
「お久しぶりですな! 今川館で……」
その声が急に途切れたのでさすがに気になった。
顔を上げるが、誰もいなかった。
首を傾げ、見知らぬ誰かがいたはずの場所を見る。空耳か。
遠くからもごもごとくぐもった声が聞こえた。……やはり空耳だな。
「お早いですな」
目を向けた先で軽く手を上げたのは天野殿だ。相変わらずの細長い変わった形の顔をしている。
天野殿には今回、煽り役ではなく土木人夫の統括をお願いした。堅実な仕事ぶりで期限以内に作業を終え、引き上げる味方の誘導にも一役買ってくれた。
こういう、先頭に立ちはしないが有能な中堅役はいてくれるととても助かる。
「もう少し護衛の数をお増やしになった方がよろしいかもしれません。吉田城にはよくわからぬ輩が多いようです」
それでも戦国時代の有力国人領主。一筋縄ではいかない男だ。
天野殿自身の周囲には、勝千代と同程度に人数がいる。護衛というよりは仕事のサポート役と言った感じだが、用心の意味合いもあるのだと思う。
護衛の不備を指摘されたと感じたのだろう、谷が露骨に嫌そうな顔をした。
「あまり大勢だと逆に動きがとりづらいので」
勝千代自身が戦うわけではないので、谷らがベストと思う護衛の数と配備が望ましい。
やんわりとこれでいいと返すと、天野殿はそれ以上言わずに頷きを返してきた。
「数が多ければよいという訳でもありませんからな」
そこからは仕事の話になった。
草案の件で多少意見が食い違ったが、天野殿は強くは我を通してこない。
和睦以外のことにも話題が及び、この先水が引けるまでどれぐらいかかるかとか、生き残った細川の兵をどうするべきかなどと話し込む。
おそらく彼らの兵糧もまた甚大な被害を被ったのではないかなどと、ふたりで熱心に話しあっていると、次第に周囲が明るく、東屋の屋根に打ち付ける雨の音も小さくなってきた。
「やみそうですな」
軒先からしたたり落ちる滴を見上げ、背の高い天野殿が呟く。
屋根から落ちてくる量はそれほど変わらない気もするが、笹の葉を打つ音は明らかに小さくなっている。
勝千代も同じように顔を上げて、すっかり明るくなった空に視線を向けた。
「夜も明けました」
雨もやみ、夜も明ける。
後回ししようもない現実が、口をあけて待っている。




