56-7 東三河 吉田城3
遠くまで見渡せるということは、敵兵力の全容が実際に目で見えるということだ。
視覚的に圧倒される、数の把握など到底不可能なほどの大軍。
普通ならば一気に押しつぶされるだろう兵差だったが、今川軍は誰ひとりとして槍すら構えておらず、ただこの混乱を傍観しているだけだった。
まるで、アリの巣に直接ホースで水をぶち込んだかのような惨状だ。
暗灰色の空から落ちてくる大量の雨と、どこまで続いているかわからない泥水の広がりが、この世には人間の力では到底かなわないものが存在するのだと突き付けてくる。
酷い光景だ。いやこれを自然の力と言っていいものか。
勝千代はその地獄を見据えたまま、雨音と濁流音に紛れて届かない悲鳴を頭の中で想像した。
細川軍だけではない、他ならぬ勝千代が連れている兵たちも、その九割が農民だ。
己の故郷を治める領主に徴兵され、足軽としてこんなところまで連れて来られた。
その挙句が、この地獄か。
彼らは誰一人として、この城までたどり着くことはないだろう。
それだけの圧倒的水量が今なお川から吉田城の対岸に流れ込んでおり、しばらくはそれも収まる気配はない。
足元の定まらない兵たちが、濁流に流されまいと必死にあがいている。
その何人が死に、何人が奇跡を掴んで生き残るだろう。
「……いいぞ、いいぞ」
そう不穏な声色で唸っているのは、隣でギラギラと片目を光らせている男だ。
これが勝千代自身の発想なのは言い訳しないが、ここまでの被害に広げたのは、間違いなく勘助の策だ。
これがこの男の「最善」か。
薄ら寒いものを感じて腕を擦り、なんとか今川軍には被害が及ばなかったことを感謝する。
「勝千代殿」
若干疲れた様子にも、呆然とした様子にも見える声色でそう言ったのは、ずっと会いたいと思っていた興津だった。
「……これは」
興津ら砦組の兵たちが、わざわざ豊川の対岸から吉田城に近づき、用意していた綱を使ってこちら岸に駆け込むのは見えていた。大方が無事だとは思うが、興津の見慣れた丸顔に安堵の息を吐く。
というのも、実に危うい所だった。ギリギリだったと言ってもいい。
もう少しタイミングが違えば、興津ごとすべての兵士があの惨状に巻き込まれていただろう。
「すぐに決断を下してくれてよかったです。間に合わないところでした」
勝千代の指示どおりに、疑うことなく従ってくれた興津には礼を言いたい。
元服も前の子供のたわごとと、指示書など見ないふりをするのではという不安はあった。
だが、先だっての攻撃で少なからず被害を受けていた興津らは、これ以上砦を維持することが難しいと思っていたのかもしれない、唐突に送り付けられた指示書に質疑を返してくることもなく、即座に移動を決めてくれた。
移動と言っても、砦を出て豊川を渡り、反対側の岸から街道を進み、敵の姿を視認してから海側へ誘導……などとという細かな指示付きだ。
相手は雑多な取り合わせとはいえ、総勢三万もの軍勢。どういう反応が返ってくるかわからず、一気に囲まれ潰される危険もあった。
だがしかし、連合軍特有の指揮系統の乱れがうまく作用し、大軍は今川軍の挑発に気づいてもすぐには動かなかった。
その場に現れたのが興津らだけではなく、朝比奈殿や渋沢の軍勢もちらほらとその姿を見せていたから、余計に警戒して陣容を整えて、という方向に流れが向いたのだろう。
やがて三河に侵入していた細川軍は、勘助の思惑通りに今川軍を追い始めたが、その足取りは鈍く、目論見通りの場所に誘導するまでに半日以上は多めに時間が掛かってしまった。
その間、ずっと雨が降っていた。
川の水位がどんどん上がり、何もせずとも溢れてしまいそうな勢いだった。
今川軍の距離を詰めないチラ見せ行為に、警戒と同時に苛立ちも募らせたのだろう細川軍は、寡兵を包み込むように広範囲に広がって追手を掛けた。
だが街道組は足が速く突出し、草原を横切る部隊は速度が出ない。
つまりは陣形などないバラバラの、乱雑な追い方になってしまい、あらかじめそれを予測していた今川軍は巧妙に目的の地域に細川軍を誘導することに成功した。
これが、吉田城の対岸に限定されていたら、相手も警戒したかもしれない。だが勘助が予想した水没範囲は、吉田城より下流の広い地域だった。
豊川を楽に渡る事ができる場所は限定的で、水量が多い時期の下流では土地勘があっても難しい。
蛇行する川の特徴でもある、部分的に土砂が堆積して浅瀬になっている部分。
勘助はその詳細を熟知していた。
一見しては浅瀬とわからない部分をピンポイントで渡らせ、今川軍をこちら岸に戻らせる。
それを見た細川連合軍は、その場所が渡河できる浅瀬だと知り一斉にそこに詰め掛けてくる。
まあ、あとはどうなるかわかるだろう?
浅瀬と言っても、既に胸元近くまでつかるほどの水深、あらかじめ準備しておかなければ渡河は不可能だ。
徒歩渡しには限界の水深、今川軍は軽装だが、追っ手の細川軍は重武装だということもある。
船渡しも数が限定され、船で橋を作る方法も流れが速すぎるので長時間のキープは不可能だ。
つまり、急使ですら足止めを余儀なくされるレベル。
土地勘のある今川軍はそれを何とか越えたが、細川連合軍は目論見通りの場所で足止めを食らった。
そして雨だ。
雨はますます強くなり、川の水は嵩を増していく。
勘助が狙うのは、川の土手を崩して意図して水を溢れさせる事。
溢れさせる場所を限定させるための細工は、雨が降る前から始まっていた。
細川軍に絶対に気づかれないように、吉田城よりも少し上流だ。
蛇行している所は特に片側が浅瀬だが、その分力学的に強い水力が当たっている部分でもあるので、あらかじめ崩れやすいよう細工をしておくと水嵩が増すにつれ簡単に堤を破ることはできるそうだ。
吉田城から見える細川軍は、大地を埋め尽くさんばかりの大軍だった。
実際には川べりに沿った布陣の為に、必要以上の大軍に見えたのかもしれないし、勝千代が目にしたのが三万という数とどれぐらいの差異があったのかはわからない。
最後となる興津の兵が、綱につかまりながら川を渡り、誰一人として流されることなく渡りきるのを少し高い場所から見守った。
それを追ってきた連中が、瞬きするほどに数を増やし対岸に詰め寄せてくる。
「あっ」と声を上げたのは勝千代ではない。
誰かはわからないが、その情景を目の当たりにした全員の心の声でもあった。
あっという間に濁流が対岸に押し寄せた。
泥水は黒々としていて、豊川を流れる水と同じもののはずなのに、色が全く違っていた。
一気に大半を流しつくしたその激流に、「ああ」と乾いた声があちこちから上がる。
思わず流されていく敵兵の心配すらしたくなる惨状。
まさに、溺れる蟻たちの巣のようだった。
「大任お疲れさまでした。しばらくは時間がとれそうですから、皆を休ませてあげてください」
勝千代が単調な口調でそう言うと、興津ははっとしたように口を閉ざした。
そしてまじまじとこちらを見つめて、「……はい」と吐息混じりに言う。
「もうすぐ夜です。この先のことは夜が明けてからになるでしょう。その時に報告をお願いします」
勝千代は濁流にのまれていく細川軍を見つめながら、またもこの手で刈り取る結果になった大勢の命のことを考えていた。
明らかに、無残な現状に対する感覚が麻痺してきている。
それは果たしていいことなのか。
これが望んだ結果なのだろうか。
相反するいくつもの感情を飲み込みながら、大勢の命の終焉を見守り続けた。




