56-5 東三河 吉田城1
なだらかに広がる平野部に、蛇行した川がキラキラと陽光を放って流れている。
背の高い茂みが美しい濃淡となって海まで続いていて、風が吹くたびに葉裏の色が波のような模様を作る。
眩い陽光に目をくらませ、一瞬だけ重なって見えた先の世の町並みを想像した。
やがて必ず訪れる、平和で豊かな時代。
だがそこに至る前に、この大地には大量の血が吸われることになる。
勝千代は、強めの風がバタバタと旗をたなびかせる音を聞きながら、大きく息を吸って吐いた。
この美しい情景に、その大流血をもたらすのは己なのか。
抑えきれない背徳感、美しいものを穢す惧れをそっと飲み込み、片手を上げる。
ぶおー、ぶおーと法螺貝が吹き鳴らされた。
同時に、ドンドンと大地を踏み鳴らし、上がる鬨の声。
若干の斜傾地から見下ろす吉田城では、牧野の兵たちが慌ただしく動き回っているのが見てとれた。
今更慌てているようだが、この結果を選んだのは彼ら自身だ。
従属しているつもりはそもそもなかったと言わんばかりの態度で門を閉ざし、先ぶれの使者を切り殺そうとさえしたのだ。
それが彼らの選択だ。先に抗戦の構えを見せたのだから、城を攻められても文句は言えまい?
東三河の雄である牧野家だが、所詮は三河の半分ですら支配しきれない小国の国人領主だ。しかも長らく今川家に従属し、勢力を伸ばすこともできずにいた。
保有兵の数はお察し程度。しかも吉田城は山城にくらべて防備が甘い平城だ。
勝千代の目には、さも「攻め落としてください」と言っているようにしか見えなかった。
牧野にしてみれば、三万の細川連合軍が今川を退けてくれると考えたのだろう。
思いのほか進軍の速度が遅いが、すぐ先の砦まで迫っているのであれば、ほんの少し耐えれば何とかなると思ったのかもしれない。
確かに、押し寄せてくる敵の数を思えば、攻城戦に手間取っている場合ではない。
そう、あくまでも、苦戦するのであれば……だ。
半日もかからず吉田城は落城した。むしろ手ごたえがないと感じるほどに、紙のように薄い守りだった。
罠ではないかと懐疑心すら抱いて入城すると、逃げ惑う者たちの多くが武装すらしていない城下町の人々なのだとわかった。
予測していたよりも牧野の兵は少なく、これでは守りに手を割くどころではなかっただろう。
「詰め城に配する兵もいないのなら、もっと守りやすい城を主城にするべきでしたね」
ちんまりとしたお子様総大将を目にして愕然としていた牧野が、青ざめた顔で縋るように周囲を見回した。
場所は吉田城本丸前庭。
すでに抵抗する者すらおらず、城は完全に今川軍の手に落ちていた。
唯一、牧野の嫡男なのだろう若い男が、怒りに耐え切れずこちらに向かってくる気配を見せたが、すぐ地面にねじ伏せられてしまう。
主家嫡男のそんな様子を見ても、捕らえられた家臣たちは苦い表情をするだけで何も言わない。
これほどの構えの城を保有しているのに、配備されている兵の数が少なすぎ、家臣たちの士気も低い。
きっと今川館お得意のやり口なのだろうが、その憤懣を出すタイミングを完全に見誤ったな。
勝千代は拘束された面々を一瞥し、彼らを牢に捕えておくようにと命じた。
そういえば勘助のかつての養子先が大林とかいう重臣ではなかったか。どの男だろうと目で探したが、縄で拘束された者たちの後ろ姿だけでは判別することはできなかった。
広大な平野は、遠くまで見渡せる。
この時代の城にはまだ立派な石垣や天守閣などはないのだが、吉田城が付近で一番背が高い建築物だというのは確かだ。
本丸の最も高い部分から見下ろせば、海は近く、なだらかな曲線を持つ山もすぐそこに見える。
目の前には蛇行する川。流域面積はなかなか広く、水量も多い。
そういう季節ばかりではないだろうが、うねる川の流れが吉田城を守っているようにも見える。
なるほど、豊川はやはり天然の堀なのだ。
西三河から来る兵はまずこの川を渡ってこなければならない。三万もの兵数がいれば、そのすべてが渡河するのに相当の労力を要するだろう。
水量が少ない季節を選べば歩いて渡る事ができるのかもしれないが、少なくとも今は無理だ。
簡易的にでも橋を作るだろうか。蛇行した部分は流れは速いが浅瀬だろうから、絶対に無理だとは言い切れない。
「戸田家から使者です」
本丸に落ち着いて、牧野家の者たちを地下牢へと命じた直後、ほんの五分もしないうちに、近隣の諸家からの使者が集まり始めた。
攻め手の視点で吉田城の攻略を改めて考えていた勝千代は、藤次郎のその言葉に「そうか」と返した。
真正面にある川が、西三河からの攻め手を遮ってくれる。
ただし、勝千代たちがそうしたように、背後からの敵には覿面に弱い。
「味方だとは思うな」
「はい」
勝千代はまだ高い位置にある陽光に目を細め、攻めやすい城は守りにくいのだなと、平和そのものにしか見えない川と城下町の様子を見下ろし考えていた。
この時点で、吉田城を守るのは二千五百の兵だ。ここに改めて攻め込むのなら、もちろん背後を突く。
山城とは違って、三倍の攻め手は必要ないだろう。
使者をよこして油断させて……考えうる攻略法は山ほどある。
今更日和見の使者を送りつけてきたとて、信頼し受け入れることはできない。
三万の細川軍を敵に回したくないという東三河勢の気持ちは理解できる。だがそれは、いますぐ今川を敵に回して良いということではないはずだ。
せめて松平のように、書面で言い訳でもしておけばよかった。
だがそれにもタイミングというものがある。今更の下手な動きは、策のひとつではないかと穿った目で見られる覚悟が必要だ。
使者は、来た順にリストを作るようにとあらかじめ言ってある。
それは物理的だけではない、今川との距離を表す明確な指針だ。
すぐに会ってやる気はなかった。
味方と断定できない者の言葉に惑わされたくない。




