56-3 遠江 井伊谷2
刻限はおそらく深夜を回った時間帯だ。
急ぎでないなら報告は朝でもよかったのだが、眠れないついでに朝比奈殿の無事な顔でも見ておこうと、子供たちが眠る部屋を出る。
その時までは、特に深刻な事態だとは思っていなかった。
いや、物事のすべてが良くない方向に進みつつある感じはしていたが、ここは遠江、地元もいいところなので、「まだ大丈夫」だと漠然とした気のゆるみがあったのだと思う。
誰に案内されるまでもなく廊下を進み、広い屋敷の一角にたどり着いた時、ざらりと背筋を撫で上げたのは悪寒だ。
複数の人の気配。少人数ではない誰かの潜めた声。鼻腔に届いたのは、物理的な臭いではない。尖ってさび付いた、外部からもたらされた刺々しい空気だ。
誰に誰何されることなく襖を開ける。
夜番の側付きたちも休ませたので、勝千代自身の手で無造作に。
広間にいた者たちの視線が一斉にこちらに向いた。
「まあ」と驚いた風に口元を覆ったのは井伊殿の奥方だ。
湯漬けを口に運ぼうとしていた朝比奈殿が、お椀を膝の位置まで降ろした。
勝千代は広間を見回し、余すところなくすべてを見て取った。
誰かが重傷を負った様子はない。それなのに、朝比奈殿の側付きがさっと隠したのは赤く染まった盥の水だ。
「申し訳ございません。お起こししてしまいましたか」
勝千代はしっかりとそれに気づいたと視線で示してから、詫びてくる朝比奈殿に向かって首を振った。
「いいえ。眠れなかっただけです」
気にせず食べてくれと身振りで示すが、朝比奈殿はお椀を脇に置いてしまった。
注意深くその表情を観察する。
普段通りの、要するに表情筋が仕事をしない無表情。
一見何事もないように見えるが、真っ赤に染まった盥の水を見なかったことにはできない。
「何がありましたか」
勝千代の問いかけに、何かを言おうとしたのは井伊殿の奥方だった。
「上総介様に、御屋形様からの書簡を手渡しました」
奥方はきっと、もう遅いからとか先に湯漬けを食べてからとか、話を先延ばしにする言葉を言いかけたのだと思う。
だが朝比奈殿がそれより先に、隠しごとなどないと口を開く。
井伊家の女性陣が、不安そうな面持ちで勝千代を見ている。
あれだけの数の子供がいれば、少なくとも外見上はまだ八歳の勝千代など完全に子供枠だろう。
だが、朝比奈殿を含め客人側は誰ひとりとしてそうは見ていなかった。
子供だから伏せられるというのは、こういう状況ではいかにも拙い。
だが、御屋形様がそうせよと命じたのであれば、その限りではない。
勝千代は無言のまま朝比奈殿の真向かいに座り、念のためもう一度怪我などしていないか目で確認した。
かすり傷でさえ負った様子はなく、それどころか、そういう事態が起こって気が立っている様子もない。
「知っておくべきことは」
「お側衆の近藤殿が切りかかってきましたので、軽く反撃しました」
「軽く」
「はい、軽く」
言葉自体ものすごくさらっと軽いが、急に鼻に鉄錆の匂いを感じた。
溜息がこぼれる。
「近藤というのは、京で捕らえたあの男ですか」
「あの近藤殿の息子です」
本人でなくとも、桃源院様の派閥だということには違いない。上総介様にはやはりその手の者がついているのかと呆れ半分、口を挟む気も失せるのが半分。
御屋形様の書簡にさえ激高し、その御言葉を受け容れられないというのは、もはや今川家の家臣としてどうなのだ。
いや、嫡男の側衆であるという権威はあるのか? 少なくともまだその地位についてのプライドは持っていそうだ。
「何か言ってくるようなら、こちらに話を回してください」
「その心配はないかと」
まさか全員切って捨てたとか……勝千代の不安をどう受け取ったのか、朝比奈殿は毅然と背筋を伸ばしたまま頷きを返してきた。
「軍配は勝千代殿のものです。それに口出しは許さぬというのが御屋形様の御命令です」
そういえば朝比奈殿は、上総介様が総大将として横槍を入れてくるのではないかと警戒していた。
もしそうなったとしても、勝千代は最前線の砦で直接指揮をとるだけだし、それについて後方からどうこうできる状況ではない。
朝比奈殿は居住まいを正し、ことさら丁寧に頭を下げてから口を開いた。
「この度の戦に参戦したいのであれば、まずは後詰。小荷駄隊の差配を完璧にこなしてみせよというのが御屋形様からの書簡の内容です」
「……それは」
厳しい。今川家の嫡男の初陣として、あまりにも華々しさに欠ける。
いや、実際に初陣ともなればそんなものなのかもしれないが、元服もまだの、数え十に過ぎない庶子である勝千代が総大将で、嫡男上総介様が後詰というのは、誰がどう考えても屈辱的だろう。
勝千代は思わず顔を顰め、朝比奈殿のことだからそれをそのまま伝えたのだろうと察した。
上総介様の側付きたちが激高するのも無理はない。
「明後日には御屋形様も曳馬城にはいられる予定です。物申したいことがあるのなら直接言うでしょう」
直接言えないから切りかかられたんじゃないか。
上総介殿との間の溝はますます深く、二度と埋める事ができないものになっていく。
勝千代はもう一度ため息をこぼしてから、「わかりました」と告げた。




