56-2 遠江 井伊谷1
曳馬城の城郭は、以前に見た時より一回りほど大きくなっているような気がした。
ご近所だが頻繁に行く方角でもないので、所用があって尋ねたのがちょうど二年ほど前か。その時にはむしろ城下町のほうが肥大化し、随分と商売人が増えたという印象が強かったが、こうやってみると城を囲む土塁の規模が半端なく広がっている。
やはり国境なので、攻め込まれることへの備えを着々としていたのだろう。
兵を休ませてやりたかったが、朝比奈殿に止められているので素通りするしかなかった。
町を横目に通りすぎ、改めて不安を覚えながら曳馬城を振り返る。
「そうご心配なさらずとも」
藤次郎にそう言われ、苦笑を返す。
朝比奈殿の心配してしまうのは仕方がないにしても、気がかりはそれだけではない。
土方とは比較にならない規模の町の人々は、果たして今にも戦が始まりそうだという事実を知っているのだろうか。
身を守るすべがあるか否かはともかくとして、その心構えがあるだけでも生き残る確率はかなり違ってくるはずだ。
勝千代は無言のまま首を振った。
それを気にかけるのは城主である興津、あるいは上総介様の役割だ。勝千代が余計な口を挟むのはトラブルの元にしかならない。
「いや、先を急ごう」
「はい」
行軍中という緊迫した状況のはずなのに、土を踏む馬蹄の音がひどく間延びして呑気に聞こえ、同時に、前回この道を通ったときの事を思い出していた。
あの時は、三河の兵を国境まで押し返した後だった。
真冬の、何もかもが凍り付いた世界。
だが、幼い勝千代の側には庇護者として双子の叔父たちがついていてくれた。
もう四年もたつのか。
「あ、小次郎殿です」
寒々しくも懐かしい、あの短い旅を思い出していた勝千代は、目がいい土井が真っ先に気づいて上げた声に我に返った。
今の時季、湿度の問題だろうか、遠距離が若干かすんで見える。
だがうっそうと茂る草原の遥か彼方。山並みが見えるその中間地点の丘のあたりに、確かに複数の騎影があった。
ああそうか、曳馬城から北に上がると井伊谷だ。
駿府から幸松らを護衛して無事高天神城まで送り届けてくれた小次郎殿に、まだ礼を言っていなかった。
もっと早くに礼状でも書いておくべきだったと後悔するが、小次郎殿なら、そこに思い至らなかった状況をわかってくれるだろう。
「食べ物と少量の酒と、屋根のある寝床をご用意させていただきました」
勝千代が謝罪を口にする前に、井伊家の嫡男はこちらに気を遣う口調でそう言った。
「お疲れでしょう。拙宅へどうかお越しください」
井伊谷はそれほどの大きな規模の集落ではない。二千人以上を収容できる町などはなく、食糧事情もそれほど豊かではないはずだ。
つまりは各個人の家や寺などをすべて開け放ってのもてなしなのだろう。
曳馬の城下には寄らないと聞いていて準備してくれたのだろうが、それにしても申し訳ない。もう少し先に行けば大きめの宿場町が……
「母が是非父の消息をお聞かせ願いたいと申しております」
そしてまた、自身の足りていない部分を思い知らされた。
何度も繰り返すが、この時代は情報伝達の速度が遅い。
例えば井伊殿が戦死してしまったとしても、その事が家族に伝わるのが何か月後ということも十分にあり得る。
いや、対北条については優位を保てているからそのような心配はしていないが、井伊家にとってはその情報すら貴重なものだろう。
これからは筆マメになろうと心に決めつつ、側まできた小次郎殿へ「すいません」と小声で謝罪しておいた。
井伊殿の奥方は非常に美人だった。一度だけ御礼状のやり取りをしたことがあるが、直接会うのは初めてだ。年長の孫と姉妹に見えそうなほど若々しく小奇麗な女性で、あの狸オヤジにはもったいない細腰の美女だ。
やはり小次郎殿は母親似なんだなと、小次郎殿のよちよち歩きの娘に何故かしがみつかれながら思った。
奥方は覚悟を決めた様子で勝千代に向き直り、事の次第を聞いて涙ぐんだ。
つくづく申し訳ない。もっと早くに戦況を伝えておくべきだった。
その夜は心尽くしのもてなしを受け、何故か大量の子供たちに挟まれての就寝になった。
井伊家は子沢山だ。その子供たちも子沢山だ。つまりはひとつ屋根の下に大量の子供がいるわけだ。
こんなごちそうは久々だったと言いながら、テンション高い子供たちが笑う。
勝千代は、同じ臥所に潜り込んできた体温が高い子供たちが眠り込むまで話に付き合い、夜のとばりが完全に落ちてもなお、じっとその寝顔を見つめ続けた。
「勝千代様」
すうすうと漏れ聞こえるいくつもの寝息をBGMに、久々に心から寛いでいたが、睡魔はいっこうに訪れてはくれなかった。
それを幾らか残念に思いながら、声が聞こえてきた方向へ視線を向ける。
「朝比奈殿が帰参されました」
弥太郎のその報告に、小さな頷きで返す。
怪我などがあればそう言っていただろうから、無事なのだろう。
だが、何も問題がなかったにしては時間が掛かりすぎている。
身体を起こそうとしたが、前後から子供たちにぎゅうとしがみつかれていてすぐには動けなかった。
こんなに幼くとも、皆、何がしかの不安を感じ取っているのかもしれない。誰もが誰かの着物の一部を握りしめて眠っている。
なんとか臥所を抜け出してから、改めて井伊家の幼い子供たちを見回した。
今回の策がことごとく不発に終わり、打つ手がなくなってしまったら、遠江を明け渡して駿府に退くことを考えていた。
だがそうなればこの子たちはどうなる? 非力な女子供を見逃してくれるような甘い敵はいないだろう。
子供たちは宝だ。将来のこの国を担っていく礎だ。ひとりも欠かすことなく、傷すらもつけたくはない。
勝千代は、伸びてきた小さな手に袖を握られて、暗がりでその子が小さく「とと」と父親を呼ぶのを聞いた。
この子の親は、井伊殿とともに河東にいる。他ならぬ勝千代の指示で、今この時に井伊谷から遠い地で戦っているのだ。
ならば……勝千代には、彼らを守る義務がある。
改めて、今回の決戦に掛かっているものの大きさに背筋が震えた。




