55-5 遠江 土方2
勘助の策とは、簡単に言うと一行で足りる。
門徒らを扇動して、兵を率いている者たちをおびき寄せ、殺す。
シンプル。たったこれだけ。
だが三万もの兵を止めるには、一か所で蜂起するだけでは足りず、各所で同時に事を起こさなければならない。
証如はそれができると言う。
門徒の手により武士らの食事に毒を盛り、騒ぎが起こるのを待って○○の兵を見たという。
最初は罠だと思っても、それが各所で起これば皆が疑心暗鬼になる。
そのうえで陣幕に火を放ち、馬を四方に散らせ、大声で敵襲でござると叫ぶ。
逃げ出した一部の者が険しく細い道に駆け込み、身を潜めている弓兵の前まで追っ手を誘導する。
肝は、その瞬間を待って、「囲まれた! 逃げねば矢の的だ」と叫びながら、大勢が一気に逃走することだ。
大勢で逃げれば敵前逃亡ではなく、撤退になると言う。
後々咎め立てられたとしても、「皆が撤退と叫びながら走り出したから」と言えば問題ないらしい。……本当か?
いやそもそも、不確定要素が多すぎる。
勘助は三河のことに詳しいので、地図を指し示しながら、このあたりの山間が誘い込むのにおあつらえ向きだと言う。
証如は信頼できる三河者が「任せてほしい」と言っていたと胸を張る。
二人ともわかっているのだろうか、毒を持ち込むのも、それを使うのも、騒ぎを起こすのも、誘導するのも……すべて、こういう工作には素人の門徒だ。
おそらくは農民、あるいは下級武士。隣にいるのは故郷からともに歩いてきた友人かもしれないし、親族かもしれない。
彼らを巻き込み、裏切らせ、最悪死に至らしめる。
相手はただの農民だぞ? 本当にそれでいいのか?
できないと思っているわけではない。そういうゲリラ的行動は、名もない有象無象がこっそり行う方が目立たないし見つかりにくい。
だがもし不審者だと思われてしまえば? 懐に毒を潜ませたタイミングだったら?
故郷にいるその者の親兄弟親族皆が罪に問われ、八つ裂きにされるだろう。
御仏の名において仏敵を討つ? そんなものの為に、家族の命をベットさせるのか?
「うまく行くかもしれないが、いかないかもしれません。あなたがするべき事は門徒を扇動して命を散らせることではなく、彼らをいかに死なせないか考える事です」
勝千代がそう言うと、証如はものすごく不服そうな顔をした。
そもそも他国の者だぞ。命を懸けるのが教義ではなく、実は証如が命じたから、という理由で本当にいいのか?
だが、せっかく好意で協力しようとしてくれているのに、完全却下は申し訳ない。
「細かな扇動は危険ですが、効果的ではありますね」
勝千代が取りなすようにそう言うと、証如はぱっと表情を明るくした。
わかりやすいお子様だ。
実際、集団心理を利用すれば、大軍の足を鈍らせることは十分に可能だと思う。
本来なら忍びや内応者にやらせることだが、どこの国のどの軍にも一定数は確実に存在する彼らの協力があれば、難しいことではないのだろう。
実際にも京で同じことが行われ、いったん軍が身動き取れない状態になった。
悪くはない手だ。
だが何度も使うと、そのうち彼らを排斥する動きにつながってしまうだろう。
不意に、もの凄く恐ろしい事を想像してしまった。
向かい合う二つの大軍。その侍大将が堂々と口上を述べ、いざ戦が始まる。
だが互いに槍を持って向き合うのは、どちらも門徒。
お互いにそれがわかっているから、本気では戦わないし、下手をすると自軍の将を背後から槍で突く、なんてことも……。
ひそかに身震いして、妄想の中の惨事を振り払った。
宗教繋がりの圧倒的多数が、国を選ばず広く深く浸透しているというのは……ものすごく怖いことだ。
実際一向一揆とは、そういうものだった記憶がある。
勝千代は、何故この子がこの場にいるか理解した。
御屋形様はおそらく、将来的に彼らが敵にならないように、という腹積もりで。
寒月様は、命を粗略に扱う証如の考えをどうにか矯正しようとしたのかもしれない。
勘助は……いや、この男は面白がっているだけだな。
勝千代は考え込みながら、無残な傷跡が刻まれた勘助の顔を見る。証如と仲良くしているのは、この子の持つ力を利用しようとしているからか。純粋に、いびつな成長をしつつあるその本質に興味を引かれたからか。
勘助は毒を使うのが好きだ。邪魔な奴らを一気に片付けることができるからだそうだ。
異相の彼を恐れることなく、その隣にくっついて座る小さな怪物。
この子が既に手にしている力は、勘助にとって毒と同等の意味があるのかもしれない。
「こちらが取れる手段はそう多くはありません。伏兵の前に誘導する、というのはありえなくはない」
このふたりを一緒にしておくのは絶対に良くない。
だが、引き離す理由が口に出しては説明しにくい。
内心を悟られないよう、臥所の真横に置かれた地図に視線を向ける。
「伏兵をどこにどれだけ配しておくかが問題です。伏兵にするなら、当面の防衛には使えない兵です。寡兵すぎては焼け石に水程度の効果しかないでしょうし」
三河の国人領主たちに念のための書簡を出すべきだろう。
こちらに味方しなくてもよいが、うまく動かなければ三万の軍の先兵にされるぞ……と。
彼らにしてみても、大軍が大きな顔をして自領を横切り、ごっそり農民を徴兵した上に、更には先頭に立って戦えと言われるなど嫌だろう。
考えれば考えるほど、ボロボロとやるべき課題が見えてくる。
そのひとつひとつを片付けていかなければ、かかっているのは勝千代の命だけではない。
視線を感じ、顔を上げると、静かな御屋形様の視線とぶつかった。
そこに何がしかの意味がある気がしてじっと見つめ返す。
「……そういえば、御屋形様」
勝千代はふと思い出して口を開いた。
「興津殿はどちらへ? 曳馬城に向かわれたのでしょうか」
そうなのだ。てっきり御屋形様と行動をともにしていると思っていた興津の顔がない。
この状況であれば、自身の城へ戻ったと考えるのが一番しっくりくるが、そもそもあの男は御屋形様をお守りするのが仕事のはずだ。
御屋形様の唇がうっすらと開き、聞き取り辛いかすれた声が聞こえた
「……砦に行かせた」
「砦ですか?」
どこの砦だろう。砦は曳馬城の周辺に沢山ある。
「朝比奈が前線を引いていた砦だ」
それって、朝比奈弥三郎殿が兵糧断ちされるまで支えていた、三河にあるあの砦のことか?




