55-3 遠江 掛川ー土方
勝千代は再び馬上の人となっていた。
もはや白桜丸にとって反発する対象ではなく、庇護下にあるどうしようもないヤツなのかもしれない。はじめは背中によじ登られるのも嫌そうだったのに、最近ではちゃんと跨っているか様子をうかがってくる。心なしか跳ねる回数が減り、髪を齧ろうとする回数も増えた気がする。
まあね、ギャロップ程度で何度も吐き戻しそうになり、再び馬に乗るのにも手間取って、騎乗したというかしがみついているだけという有様だから。
こんなの馬上の人ではなく、馬に運んでもらっている人だよ。
もちろんこの状況でひとり乗りは無理なので、逢坂老の孫、喜久蔵が今回のタンデム相手だ。
勝千代の「急げ」との命に、「よろしいのですか?」と返されて。
その意味を察することなく、もう一度「急げ」と命じた。
忘れていた。逢坂家は赤い疾風集団だった。
ほうほうの態でたどり着いたのは、福島家の主城である高天神城。
どれぐらいかかったのかなどわからない。一瞬? いや一生分乗っていた気がする。
肝が縮むどころか、情けない悲鳴をあげてしまいそうな長い時間を耐え、これからは乗馬技術の習得ではなく徒歩移動に耐えうる体力づくりをした方がいいのではないかとひそかに思った。
根性で吐かなかった。
……いや正直に言おう、何度も胃袋からせり上がってきた酸っぱいものを飲み下した。
吐くには下馬しなければならず、下馬すればこの速度が落ちる。
速度重視なのはわかっている。そう命令したのだから。
だがもうちょっと気を使ってくれても……いや、河東からこちら、もっと言えば今川館から東へ向かう頃から気を使ってくれているのはわかっている。
ただ勝千代の三半規管がへっぽこなだけだ。ちくしょう。
「御屋形様!」
勝千代が甲高い声で叫びながらその部屋に駆け込むと、臥所を囲むとんでもない面々が一斉にこちらを向いた。
ここは寒月様にお過ごしいただいている屋敷だから、家主がいるのはわかる。だがその隣に何故お前がいる引きこもり。
「えらい慌ててどうしはった」
はんなり京訛りでそう言うのは東雲だ。
「顔色が悪いですね」
遠慮のない口調でそう言うのは、勝千代とそう年の変わらぬ同年配の少年。
百歩譲って寒月様と東雲はわかる。引きこもりもいいだろう、引きこもっていた場所が目と鼻の先だ。
だが武家の若君の身なりで、いつかの尊大な風に顎をあげているのは、本願寺派の御曹司証如だ。
何故ここに、と尋ねそうになって、高天神城で預かっていたことを思い出した。だが何故引きこもりの隣にいる。しかも親し気に顔を見合わせて笑っているとはどういうことか。
勝千代以外の、もっと言えば臥所で青白い顔をしている御屋形様でさえ、何とはなしに和気あいあいとしているのは気のせいか?
「心配致しました」
「それは済まぬ」
行方不明だと皆に気を揉ませていた当のご本人は、まったく済まないなど思っていなさそうな表情で唇の両端を持ち上げた。……確信犯だな。
あのまま今川館にいては、殺されるかもしれないと姿を消したのだろうか。まったくもって御屋形様らしくないが。
「このような所までお越しになるなど……お身体に障りは御座いませんか?」
障るに決まっている。寒月様の御前で臥所に横たわり、半身を起こすことすらできないのだから。
「そのほうの方が酷い顔色だ」
「これは馬酔いです」
ぶっ、と遠慮もなく噴き出したのは、皆が端正な佇まいで座っている中、ひとり膝を崩している異相の男だ。だがこの男の場合は仕方がない。黒光りがする例の虫のごとくしぶとく生き残り回復しても、失った片目と片足は戻ってこない。
「御前ぞ。直れ」
必死の思いでここまで来たのに、笑うなんてひどいじゃないか。
そう文句を言ってやろうとして、御屋形様に叱られた。
そうだった。
「お騒がせして申し訳ございません」
もはや上座も下座も関係なく、臥所の周りに集まっていた者たちの中、一番に挨拶をするべきなのは御屋形様ではなく寒月様だった。
勝千代が居住まいを正して頭を下げると、寒月様は前にお会いした時よりは元気そうにうっすらと笑った。
「よい」
相変わらず渋みのある低音の声だ。
「御屋形様をどちらで……いえ、この者たちがご無礼を働いたのではありませんか」
寒月様が御屋形様を見つけてくれた、というわけではないのだろう。今川館から連れ出されたときには意識はなかったと聞いている。つまりはその後、どこかで目を覚まされてから、本拠地に戻るのではなく遠江へ行くことをお選びになられたのだ。
東雲はまだわからなくはない。寒月様を気にかけてここまで来たのだろう。
だがどうした引きこもり。それからその隣にぴったりとくっついて座っている小坊主も。
問い詰めたいことは山ほどあったが、真っ先にこれだけは言わなければならない。
「ここはじき戦場になるやもしれませぬ。できるだけはやく駿河のほうへお移りください」
「細川か」
御存知だったか。いや、知らないわけがない。
掛川城と同じく、高天神城でも数少ない兵たちが防備を固めつつあり、街中も物々しい雰囲気だからだ。
勝千代は顔を顰めた寒月様をまっすぐに見て、公家であるこの御方を巻き込んではいけないと強く思った。
視線を東雲に移す。
「今ならまだ安全に移動できます」
よりにもよってここは、三万の兵が押し寄せてくる激戦区になりかねない場所なのだ。
「お勝」
臥所の中から御屋形さまが声を上げた。
「人には定められた役割がある」
それは、臥所から起き上がれない状態でもですか。
勝千代はそう尋ねたかったが、さすがに飲み込んだ。
もはや御屋形様に時間が残されていないのは、誰の目にも確かなことで。
今ここで何もせずにいれば、できないままで生涯を閉じることになりかねない。そんな思いがおありなのだろう。
だが、それとこれとは話が違う。
「武家のいさかいに巻き込んではならない御方です」
「武家だろうが公家だろうが関係はない」
寒月様に、大軍が押し寄せてくるこの地で何をしろというのだ。証如とてそうだ。
「すべては定められた命運の内にある」
いや、そう思いたい気持ちはわかるが、運命などクソくらえだ。人間はそれを変えるためにあがき生きるのだ。
「お勝、お勝」
内心の不服が顔に出ていたのだろう、青白い乾いた唇からかすかな笑い声がこぼれる。
「そなたはまだ幼いのだな」
中の人の年齢を足すと寒月様にも届きそうだけどな。ちらりと過ったそんな思いはもちろん口に出すわけにはいかず、無意識のうちにぎゅっと眉間にしわを寄せて更なる不服を露わにしてしまった。
御屋形様だけではなく、寒月様や東雲、不本意ながら場違いな残りふたりまでもが声に出して笑いだす。
笑うところじゃないだろう。特に証如。




