55-2 遠江 掛川城
何でこんなことをやっているんだろう。
馬酔いするとわかっていて、駿河遠江の二国を端から端まで横断するなど正気の沙汰ではない。
完全グロッキーの醜態をさらけ出し、勝千代は白桜丸の背中にしがみついていた。
他の誰もこんな無様な様は見せていないのに、これは子供というだけが理由ではなさそうな気がする。
そういえば、子供の頃のバス旅行ではいつもエチケット袋を握りしめ、大人になってからも山道のドライブは苦手だった。
いつかは慣れると信じたいが、こればかりは体質なので、努力でどうにかなるものではない。
ここまでくると白桜丸にすら気を使われている。しきりに耳がこちらを向き、歩き方も慎重になってきた気がするのだ。
だがこの時代はどこもかしこもオフロード。馬が気を遣うにも限度があって、でこぼこ道で大きく身体が揺れるたびに、もはや吐くものもないのに嘔吐感が込み上げてくる。
だが幸いにも慣れた道だ。
もはや何往復したかもわからない東海道を西へ。土の道だが踏み固められ、それなりに道幅もあるので、移動するには楽な方だ。
この上り坂が最後だとわかっているので、もうギリギリ限界の意識をどうにかつなぎ止め、顔を持ち上げる。
ああ、掛川城だ。
贔屓目ではなく、この時代の城の中で屈指の雄大さを誇る名城だと思う。
遠江に帰ってきたのだ。強くそう思った。
「殿!」
真っ青な勝千代が白桜丸から抱え下ろされる真横で、朝比奈殿が顔を上げた。
遠くから馬を駆って出迎えてくれているのは見覚えのあるちょび髭。
「よう御無事で!」
今にも泣きだしそうな中年男が両手を広げて、抱きつくのではないかというオーバーリアクションで走ってきた。
ハグの文化のない国なので、もちろんそんな事にはならず、城代の棚田は朝比奈殿の前でスピードを緩めて片膝をついた。
「御命令通りに用意は整えております」
勝千代は半分失神したような状態だったので、その後のことはよくわからないが、二千の兵が一時休めるための宿泊場所や着替えや飯の支度を、歓待といってもいいレベルで準備してくれていたそうだ。
体力が有り余っている野郎どもは、士気を上げるために振舞われた酒で一晩中お祭り騒ぎだったとか。
残念ながら勝千代は翌日の昼まで眠り続けていたので、それについての記憶は全くない。
「お目覚めにございますか」
意識が上層部にまで上がってきたが、まだ身体が揺れている感じがする。
はじめてのことではなく、船乗りでいう陸酔いのようなものだとわかっているので、眩暈が落ち着くまで目を閉じていた。
「一度身体を起こしましょう。これを飲めば少しは楽になりますよ」
目をあける前から、弥太郎の声だとわかっていた。
普段通りの声掛けに、長く息を吐き出す。
「……戻ったのか」
「はい」
「詳しい報告はあとで聞く」
少しだけ、心の準備をしてからにしたい。
勝千代はひと息ついて身体を起こし、ゆっくり時間をかけて薬湯を飲んだ。
味わって飲むようなものではないが、もはやこれがないとずっと胃が痛い気がする。
身支度を整え、髪を結いなおし、顔を洗って。
本当に何ということはない日常の支度を澄ませてから、ようやく「よし」と気持ちを引き締めた。
「話を聞こう」
部屋の隅で控えて待っていた弥太郎が、その場で丁寧に床に両手を付いて頭を下げた。
「兵の数は」
「わかりません」
真っ先に聞きたかったことは、即座に「わからない」で済まされてしまった。
「おい」と突っ込むべきか、聞かなかったふりで先を促すべきか迷い、結局黙って弥太郎の言葉の続きを待った。
「あまりに混雑し過ぎております。各家の兵が雑多に混ざり合い、どこからどこが細川家か、あるいは尾張や三河の国人衆がまじっているのかはっきりしません」
それほどの大軍か。
ひんやりと首筋が冷えてくるような錯覚を覚えた。
三万というのが松平の誇張か法螺ならばどれほどよかったか。
いや、実際に軍勢を目で見てきた弥太郎が「わからない」と言っているのだから、松平の翁にそれが判別できるとは思えない。どこから三万という話を聞いたのだろう。細川軍の誰かだろうか。だとすればそれこそ過大な数字の可能性は無きにしも非ず。
もし一万、いや二万より少ないなら、今からでも井伊殿らを呼び寄せ、真正面からの戦を試みるのは可能だ。
だがしかし、日数的には無理でなくとも、あちらには北条軍がいる。今川の退き口として駿東を奪われるわけにはいかない。
「前門の虎後門の狼だな」
「虎というよりも烏合の衆です」
勝千代がため息をつきながらそう言うと、弥太郎がすかさず否定してきた。
烏合の衆なら追い立てれば逃げ飛ぶだろうが、大逆犯を討つためにはるばるやってきた、仮にも官軍だ。まさかそんな無様はさらすまい。
「鳥と言っても、鵜飼いの鳥だろう。獲物を前に手控えてくれるわけがない」
「その鵜飼いの綱を断てば勝機はあります」
声は廊下の方から聞こえてきた。
念のために人払いをしていたのだが、もちろんその声の主を遮る者は勝千代の配下にはいない。
はっと息を飲み、顔を上げた。
「叔父上!」
志郎衛門叔父が、相変わらずの厳しい表情をしてそこにいた。
再会できた喜びで表情が緩むが、叔父の顔はちらりとも綻ばない。
一瞬だけ、兵庫介叔父のことで責められるのではと危惧したが、そんなことはなかった。
逆に、勝千代にそれをさせたのを済まないと思っている風に、「アレのことは聞きました」ともはや名も呼ばない。
「どうしてこちらに? 高天神城で何か問題が?」
はっとして、そういえば福島家の兵の大半は信濃に送ったのだと思い出した。曳馬へ大軍が押し寄せるのなら、城の防備のために改めて兵を募らなければならない。
掛かりは足りるだろうか。いやそもそも、集める事ができる者がまだ残っているのだろうか。更には、もう一度幸松らを避難させるべきだろうし、寒月さまの御身の安全も考えなければならない。
あれこれと、何もかもを志郎衛門叔父に丸投げしてしまったことを思い出して、非常に申し訳ない気持ちになった。




