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春雷記  作者:
駿河編

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322/397

55-1 駿河ー遠江

 しとしとと雨が降り続いている。

 気温が上がってきた事もあり、はっきりしない天気による不快度指数は洒落にならない。

 特にひどいのが鎧兜から漂ってくる汗の臭いだ。

 石鹸で毎日身体を洗い、湯船に浸かるという文化のないこの時代、当然だが下に着ている小具足の小袖や袴や下帯なども頻繁に洗う訳ではなく、更に洗う予定などない鎧兜を毎日身にまとい続けているとなれば、体臭は相当だ。

 それが集団ともなればどうなるかは……言わずもがな。

 もしこの大戦おおいくさを生き延びる事ができたら、そう遠くもない将来には、勝千代自身も鎧を身にまとう日がくるのだろう。

 ……え? こんな臭いの発生源になるの?!

 白桜丸の背に揺られながら、そんな益体もないことばかりが頭を過る。

 現実逃避だろうか。


 勝千代が率いるのは二千の兵だ。対する細川の連合軍三万は、今は三河のどのあたりに居るのだろう。

 駿東から兵を呼び戻すべきだと幾度となく軍議の議題には上がったが、結局は勝千代が頷かなかった。

 三万の兵を向かい討つのに、その半分に満たない兵を集めたとて意味はない。真正面から戦って勝てるはずがないのだ。

 つまり、必要となるのは第一に和睦の交渉、あるいは奇策だった。

 状況がまだはっきりしていないので、何とかなるものかなどわかるはずもないのだが、例え敗戦するにせよ、被害は最小限に抑えたかった。

 八郎殿には、万が一掛川まで抜かれるようであれば、今川館を捨てて皆を駿東へ落ち延びさせるようにと頼んでおいた。

 井伊殿と駿河衆の兵が万全であれば、国は削られようとも今川家は存続できるはずだ。


「大井川です」

 藤次郎の言葉に、ようやくかと顔をあげた。これで全行程の三分の一、今夜は川を渡ったところの宿場町で休む予定だ。

 どんなに気持ちが急いだとしても、大勢の移動には時間がかかる。

 勝千代だけが先に行くわけにはいかないので、後続の足軽兵たちが川を渡り終えるのを、せめて最後尾の目途が立つまでは待たなければならない。

 もちろんそれは、細川軍も同じだ。

 はるばる京から、いや国許から京を経由しての、戦まで込みでの長い旅路だ。疲労もたまっているだろう。

 こちらとは桁ひとつ違う大軍で移動している細川軍は、その速度もゆっくりだと思う。

 故に、応戦の準備を整える時間の猶予はあるはずだった。

 いずれは遠江への侵攻が始まってしまうのだろうが、真正面から三万の軍勢と戦う羽目になる前に、できる限りの手を打っておきたい。


「それにしても、寸前まで敵同士として戦っておりましたのに、供に轡を並べて遠征だなど……」

 土井の言葉に、京での激戦を見てきた者たちが複雑そうな顔で頷く。

「内心では不満があろうとも、割り切るしかない」

 藤次郎はそう言って、天気がよければ夕焼けが見えたであろう遠江の方向に目を向けた。

「戦えと命じられれば言われたとおりにするだけです」

 やけに実感のこもった口調だった。そして、その通りでもある。

 詳しいことを教えられていない者なら、例えば親兄弟や親しい友人を殺した相手と共闘するなど、不満を通り越して怒りすら覚えるのではないか。

 道中で無理に参戦させられている者たちも、頭ごなしに命じられ、得るもののない戦いに駆り出されるなど、決していい気分ではないだろう。

 それでも、将軍の名において遠江に向かって歩かされている。

 命令だから、受け入れざるを得ない。


「では、そんな者どもは、望まぬ戦に駆り出されてどうすると思う?」

 少し思案してからそう問うと、藤次郎は首を傾け視線を勝千代に戻した。

「とおっしゃいますと?」

「士気が低く、不満の多い軍勢。しかも昨日まで敵として戦ってきた者同士が轡を並べて戦場に向かっている。……こういう場合、何が起こる?」

 藤次郎だけではない、他の者もそれぞれに想像してみたのだろう。たちまち眉間にしわが寄り、唇が不快気に歪む。

 そう、揉め事なく済むはずはない。

「手柄を張り合う、あるいは背後から突かれることを警戒して足並みがそろわない、などでしょうか」

「そこで兵糧が足りないらしいという噂が流れる」

「そうですねぇ。敵だった者の持ち物を狙う不埒者が出たり……」

「あるいは、敵だった軍の小荷駄から兵糧を奪ったり?」

「ありえますね。どこまで軍規を正す機能があるかにもよりますが」

 勝千代はおざなりに頷いた。

 頭の中は忙しなく、とりとめもなく、色々な事を一気に考えていた。

 並行思考とまではいかないが……経験したことがある者は多いだろう、マルチタスクで大量の仕事をさばいている感じだ。

 現実なら混乱して始末に負えなくなるのが関の山だが、思考のほうはトライ&エラーで、余計なものは途中で放置しておけるのがいい。


「……朝比奈様です」

 土井が気づいて声をかけてくれるまで、どれぐらい考え込んでいただろう。

 周囲はかなり薄暗くなってきていた。

 相変わらず小雨が鬱陶しく、陰鬱な空気を醸し出している。

「川を渡る準備ができました。船の方へ」

 有能な前線指揮官である朝比奈殿は、こういう細かな手配にも如才ない。

 何もかも任せきりの上に申し訳ないが、手が空いた時にでも先程の件について相談したかった。

 寡兵で大軍にあたるとき、真正面から戦っても全滅するだけだ。

 やはり必要なのは補給を断つこと。敵陣の混乱を画策すること。

 最終的には疑心暗鬼になって、友軍に背中を見せる事すら警戒するようになるのが望ましい。

 つけ入る隙はある。とはいえ敵の方が桁が違うほどに多いのは事実。


 誰かを殺すための方法を延々考え続けながら、これじゃあ性格がひねるのも仕方がないなと、思い浮かべたのは端正な承菊、童顔の長綱殿、そしてついでに、高天神城の引きこもりの顔だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] >端正な承菊、童顔の長綱殿、そしてついでに、高天神城の引きこもり 井伊狸「やったぜ」
[良い点] 篭手の夏の臭いもやばいww 体にまとわりつく
[良い点] >三万の兵を向かい討つのに、その半分に満たない兵を集めたとて意味はない。真正面から戦って勝てるはずがないのだ。つまり、必要となるのは第一に和睦の交渉、あるいは奇策だった。 奇策を奇襲と読…
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