54-6 駿府 今川館 北殿4
転がった首は、横を向きながらもなお勝千代を凝視していた。
その血走った目にはまだ生気が宿り、吹き上がる鮮血に御台様が悲鳴を上げる。
「申し訳ございません」
刀を収めた渋沢が、その場で膝を付いた。
そこ血まみれだから……と、真っ先に頭を過ったのは感染症のことだが、黒づくめの男は気にも留めずに血だまりの真ん中で頭を下げた。
許可なく首を飛ばしたことへの謝罪だろう、勝千代は小さくかぶりを振った。
有用な話は搾り取れたかもしれないが、それよりも、これ以上の毒をばらまくのを止めてくれてよかった。
それよりも、刻一刻と広がっていく血の量に顔を顰め、渋沢含め、いまだ伊勢殿の首から下を押さえつけている二人にも離れるようにと手を振る。
伊勢殿の最後の煽りで、思いっきりヘイトを買わされてしまった。
今更だが、はっきりとした憎しみと懐疑の目を向けられていて、逆に勝千代の側付きたちは警戒と敵意を返している。
それでもなお御台様は強気で、「上総介殿に無事お戻り頂くまでは決して兵を引くな」と無理難題を言い置いて、勝千代が出陣する事へは同意した。
そのほかにも、「死ぬならその方が死ね」やら「盾になるのが当然」やら、逆にうち側のヘイトを高値で買い続けていたが。
すべてのことが、ご自身らが伊勢殿を信じ、言うがままに動いたせいだという自覚はないらしい。
騙した方が悪い、我らは被害者とばかりに、言いたいことだけ言って、あとは顔も見たくないと奥の自室へと下がってしまった。
逆に、感情の揺らぎを見せない桃源院様のほうが気になった。
もちろん心配という意味ではなく、更にまた何かを画策するのではないかという危惧だ。
彼女たちが余計な動きをしないよう、四六時中の監視が必要だった。
残念ながら勝千代側にそれに割く余計な人員などない。
つまりはまた、今川館の居残り組に任せることになる。
とはいえ彼らには、やすやすと伊勢殿を中に入れてしまった前例があるので、頼りになる助っ人を呼び寄せていた。
ところ変わって大広間。
足早に行き来する文官たちの仕事ぶりを監督しながら、勝千代はその「助っ人」を出迎えていた。
上下はなく、ほぼ同格の座り位置を見て、露骨に当惑の表情をされるが、座るように手で促すとおずおずと近づいてくる。
「伊勢様の事、お役に立てずに申し訳ございませぬ」
勝千代の前で居住まいを正し、頭を下げるのは、まだ顔色が悪い八郎殿だ。
一応は長綱殿の弟にあたるが、一度も会ったことのないという異母兄の事は何も尋ねてこなかった。
その傍らには岡部家家老下村。この男がついているから、動けなかったのではなくあえて動かなかったのだろうとわかる。
そもそも、賤機山城に兵は置いていなかった。厳密に言えば無人ではないが、戦える者をかき集めたとしても百人程度だ。更には長綱殿の弟ともなれば、慎重にならなければ巻き込まれるという思いもあったのだろう。
「お身体の具合はいかがですか?」
勝千代がそう尋ねると、「いえ」と顔色が悪いまま首を振り、以前と変わりのない今川館の様子を確かめるように視線を巡らせた。
何か言いたいことがあるのかと首を傾げ、人払いするべきかと思案していると、「曳馬城に御出陣なさるとか」とためらいがちに問われた。
非常に気弱そうというか、押しが弱そうな男だ。だが、厳しい尋問を受けても口を割らないだけの根性はあると知っている。
若干泳いでいるその視線を捕まえて、言外に真意を問うと、ごくりとその喉ぼとけが上下した。
「……こちらを。今更かもしれませぬが」
持ち込んでいた風呂敷包みを下村があけると、真新しい冊子が出てきた。表書きなどは見えない。
「それは?」
「覚えているだけのことを書き記しました」
さも当たり前のようにそう言って、うんうんと頷く八郎殿。
数人の手を介して運ばれた冊子には、びっしりと細かい文字があった。
〇年〇月〇日米五十俵などなど。
アラビア数字がない時代なので、読みにくいことこの上ないが、これはいわゆる裏帳簿というものではないのか?
「……覚えているだけのこと?」
これだけの情報量を、メモも記録媒体もなく頭に刻んでいたと言うのか?
勝千代が目を丸くして顔を上げると、八郎殿は若干表情を緩めた。
「物覚えだけには自信があります」
自信どころではない。いわゆる、写真記憶というやつだろうか。得難い才能だ。
「疑惑の部分だけを書き出してあります。念のために今川館に残っている書類との突き合わせをお願いします」
「わかりました」
勝千代は頷いて、これで滞っていた監査が一気に進むと胸をなでおろした。
「妙姫さまは?」
そして本題。
北殿の監視監督を、一門衆出身の姫であり、将来はその妻となる妙殿に依頼したのだ。
女性の事は女性に任せるに限る。長く今川館の住人だった妙殿にはうってつけの仕事だ。伝手もあるだろうし、信頼できる者もいるだろう。
「すでに奥へご機嫌伺いに上がっております。こちらへの御挨拶が後になります事は……」
「かまいませんよ」
勝千代がそう言うと、八郎殿はほっとしたように微笑んだ。
よかった、なかなか仲良くやっているようだ。
「これから先のこと、八郎殿にお任せしてよろしいか?」
再び自信無げな色がその目に垣間見えた。
「……はい、お戻りまで心して務めます」
気弱そうなところが不安だが、許嫁の妙姫やその家臣団、下村も力になるだろう。
そういう外部の力が今の今川館には必要だった。
「いつ頃お出になられますか」
敵が三万だという噂はすでにもう消火しようがないほど広まっている。
八郎殿の顔色が悪いのは、御屋形様が御不在なうえ、上総介殿もおらず、更には勝千代までも戻ってくることができるかわからない、厳しい戦いだと知っているからだ。
改めて、みぞおちのあたりに冷たいものを感じる。
それは死への恐怖というよりも、襲い来る大軍に対する緊張であり、背負うものの大きさへの畏怖だった。
勝千代が踏ん張らなければ、遠江に踏み込まれてしまう。更には今川館までも一気に押し寄せてくるだろう。
大勢の命運が掛かっているのだ。
「用意が整い次第すぐにでも」
勝千代は、次第に上がってくる心拍数を宥めながら、今からそれではもたないと深呼吸する。
「兵糧と装備の確認をしています」
それも朝比奈殿に任せておけるので、勝千代の仕事はただこの手の差配だけだ。
「お手伝いできることはございますか」
いや、八郎殿はまだ病み上がりだから横になって……と言いそうになって口をつぐんだ。
今川家のために何かをしたいという思いを、素直に受け入れるべきだろう。
「仕事は山積みです」
直前までの職務がその文官だった八郎どのは、右往左往する元同僚たちに目を向けて、心得たように頷いた。




