54-5 駿府 今川館 北殿3
付き添いの女官などはおらず、武骨者ふたりに連れて来られた御台様は、勝千代を見て目尻を吊り上げたが、組み伏せられた伊勢どの、拘束された長綱殿を見て表情を硬くした。
何かを言おうとしたものの、畳の上を注視して真っ青な顔をしている桃源院様の存在に気づいていぶかしげな顔をして、その視線を追って彼女もまた問題の物に視線を移す。
桃源院様の横に腰を下ろし、改めて不信感しかなかったのだろう、睨むように畳の上を一瞥して……さすがに気づいた。
「それは」
一気に表情を失くしたのは、見覚えのある偽書の包紙だったからか。その隣に広げられたものへは最初興味はなさそうだったが、近くで見るとさすがにわかる。
「……どういうことや」
「今上帝の御宸翰ではありません」
「な、なにを」
美しいアーモンド形の目が、畳の上のものを何度も往復した。
「伊勢殿は偽書をもって舌先三寸で今川家を転がしたということです」
あっけなく転がされたご本人である御台様は、狼狽するように伊勢殿を見た。
畳の上に丁寧に並べられているのは、問題の宸翰(偽)と、勝千代がたった今まで胸元に差していた扇子だ。
シンプルで飾り気はないが、要の部分に施された小さな金細工の菊の紋が何よりの証拠だった。広げた面に書かれた和歌こそが、今は亡き……いや、公的にはまだ生きているとされる今上帝の手だ。
まったく違う筆跡なのが、素人目にもはっきりとわかる。
「たとえこれが偽書でなくとも、私的な書き付け一枚で三万の兵が止まるとは思えませんが」
「そんな」
「細川の大義名分は、帝に弓引く大逆の徒の討伐です」
御台様の濡れた目が、壮絶な怨嗟の色に染まって組み伏せられた男を見据えた。
「この男がもくろむのは、おそらくは今川家の乗っ取りでしょう」
「……妾をたばかったのか」
伊勢殿の目は、変わらず強い光を放っている。
女の繰り言など聞く価値もないとばかりに唇を歪め、もう一度拘束する腕を振りほどこうとあがき、再び押さえつけられる。
御台様はやはり、宸翰の存在を過大に考えていた。
公家の出であり、生まれついて帝を奉じる家系に育ったのだ、そういう価値観は武家に嫁いだとしても簡単に変わるものではない。
帝の権威が日ごとに陰っていくとは肌で感じていても、無下にされるなど想像もするまい。しかもそれが偽書となれば……
「上総介殿はどうなる」
女性にしては低めのしっとりとした声が、怨念を込めて問う。
勝千代はしばらく黙り、拘束されても居住まいを正したままでいる長綱殿のほうをちらりと見た。
「予定ではどうなるはずでしたか」
長綱殿は困ったように苦笑して、首を振った。
「三万の兵を相手に、戦の経験もない子供がどこまで耐えきれるでしょう。逃げ帰るのが関の山では」
それって「運が良ければ」ということだよな?
「一応は従兄弟の子でしょう」
「伊豆に攻め入ったのはそちらが先です」
やはり、今川の兵を伊豆から引かせるための策か。
残念ながら、そんな命令は出していない。もちろん親切に教えてやるつもりは毛頭ないが。
「伊豆へ攻め入るより、今川へ向かう軍の方が早い段階で動いていたのでは」
「当初は和睦を提案するつもりでいましたよ」
「この偽書で?」
「いいえそれは……」
長綱殿は笑った。思わずというような失笑だった。
それ以上詳細を語る気はなさそうだが、そもそも伊勢殿が思うような強固な後ろ盾というわけではないという印象を受けた。
「はははははは!」
不意に、鼓膜を突くようなけたたましい哄笑が響き渡った。
「そうか、それはそうよな」
伊勢殿はひとしきり笑ってから、さも面白いと言いたげに笑みの混じった声で言った。
「所詮はこの程度か」
長綱殿を見て、二人の女性を見て、ぐるりと部屋を一周見回してから勝千代を見る。
「童子めが」
勝千代は、何かを悟ったような表情の伊勢殿に嫌な予感を覚えた。
何が起ころうと悪い方向にしか転ばない気がして、無意識のうちに身体に力が入る。
口を塞ぐべきか? ……迷ったのだ。これ以上喋らせていいものかと。
だが同じぐらい、この男がこぼす情報は有用なものだとも思った。
一瞬、伊勢殿の口角が持ち上がり、それから真横に引き結ばれて。
「嫡男の心配はして、ご当主はどうでもよいのか?」
はっと複数名が息む音が聞こえた。
「修理大夫殿はいまどちらに?」
そう言い置いて、ふたたび「ふははははははは!」と盛大な哄笑。
耳をつんざく大音声に、取り囲む男たちは誰もが刀の柄に手を当て、すぐにも抜き放つ構えを取った。
これはわざとだ。伊勢殿は今ここで、切り殺されようとしているのだ。
桃源院様の細腕での軽い負傷とは違い、できれば一刀両断に首を飛ばすほどの一撃を待っている。
「残念だが、童、戦は止まらぬ」
擦れるような声でそう言って、再びくぐもった声で喉を鳴らし。
「修理大夫殿の名で宣戦布告の書状を叩きつけておいた故にな!」
特大級の爆弾を投げつけて、更に盛大に笑った。
「……なんということを」
喉を反り返すようにして笑い続ける男に、誰もがしばし茫然としていた。
ふたりがかりで組み伏せられているのに、この場にいる全員に脅威を感じさせ、震え上がらせている。
それは死を覚悟した者の凄みに対してではなく、かなぐり捨てられた仮面、露わになった狂気のせいだった。
真っ先に刀を抜いたのは渋沢と谷の主従だ。こいつらは本能で伊勢殿を排除するべき敵だと認識したのだろう。
残念ながら、それはお預けだ。
「待て」
勝千代は素早く手を上げてその場を制した。
「色々と問いたださねばならない事ができた」
特に、御屋形様の所在だ。知っている風を装っているだけか、どこかに捕えているのか。
勝千代のその言葉を受けて、伊勢殿がゾッとするような形相でまた笑う。
「これまで散々な目に遭わされてきたのであろう? 留飲が下がるとはこのことか?」
「なに?」
「修理大夫殿も嫡男も死ねば、今川家は思うがままよな? 童」
夢にまで出て来そうな、耳に残る悪魔の声だ。
伊勢殿は身をよじるようにして高らかに笑い、ギラギラとした目でひたと勝千代を見据えた。
「三万の兵を凌げたらだが」
一気に立ち上った殺気を、今度ばかりは止める気になれなかった。
胴体から首が離れ、ボールのように畳の上を転がってもなお、その禍々しい笑い声が続いているような気がした。




