54-3 駿府 今川館 北殿1
今川館北殿。
勝千代にとってまったくいい思い出のない場所だ。
相変わらず隅々まで美しく、一条家の京屋敷よりもきらびやかだ。まるで絵巻物の世界のようなその優雅さは、戦場帰りの目にはひどく現実離れしたものに映った。
そんな中、足音も荒く踏み入れた男たちは、どう見ても場違いな無頼者。
誰もかれもが無表情なのは、遠くからでも漏れ聞こえてくる甲高い悲鳴のせいだろう。
御屋形様のお住まいだということもあるし、無体な真似はしていないはずなので、きっと姿を見るだけで叫ばれているのだろう。不憫。
勝千代が北殿についた時には、伊勢殿の兵五十の捕縛は完了していた。北条の兵も同様だ。
双方まったく抵抗しなかったそうだ。
故に、血は流れていない。
それなのに、いまだにそこかしこから悲鳴が上がり続けている。
奥まった一室。
最奥ともいってもいい広い部屋に、彼らはいた。
手前一番下座にいるのは、少年じみた面の僧形、長綱殿だ。
正面奥の一段高くなっている場所には、まりも頭……ベリーショートヘアの直垂の男で、三人の中で唯一勝千代を見て顔色を変えた。
そして正面左横、上下でいうと下側なのだが、まりも頭の真横と言ってもいい位置に泰然と腰を下ろしているのは……伊勢本家の御当主。
黒蛇ともあだ名されているその男は、はるばる駿河まで落ち延びてきたとは思えないゆとりある身なり、態度だった。
以前見た時のような折り目正しい居姿ではなく、肘を脇息に置き、身体を預けた寛いだ姿勢だ。
トントンと扇子の先で畳敷きの床を叩き、さも退屈だと言わんばかりの表情で、「ようやく来たか」と第一声。
ようやく? さんざん足を引っ張って、駿府に戻れないよう手を尽くしておいて?
その上で「ようやく」というのであれば……いや、ただの嫌味に違いない。
勝千代は無言のまま手を上げた。
ざっと背後で足音がして、まずは勝千代が入ってきたところの襖を全開に、続いて部屋を囲むすべての仕切りを開け放っていった。
身を潜めていた伊勢殿の手勢はわずか五名だ。長綱殿の北条の兵はいなかった。
口を開こうとした瞬間、再び遠方でけたたましい悲鳴が聞こえた。
先程とは違う方向からなので、逃げていた方々に兵が追いついたのかもしれない。
「酷いことをなさる」
わざとらしく眉を下げてみせるのは長綱殿だ。
目が合って、その明らかに愉悦を含んだ眼差しに、「この野郎」と責め立てたくなるのを堪えた。
「申し訳ございません。部屋を移って頂きたいとお願いしたのですが」
「わかっている」
渋沢の配下の申し訳なさそうな顔に、気にするなと首を振る。
けたたましい悲鳴を上げ続けているのは、御台様とその御女中だろう。今はあの御方に気力を吸い取られるわけにはいかないから、わざと声が遠ざかるのを待っていたのだ。
更にそれから長綱殿を移動させる時間はなかった。
勝千代は最上座にいるまりも頭へはあえて目を向けず、その隣に座る伊勢殿と正対した。
見たところ、既に刀などは取り上げたようだ。それなのに焦る気配もない。
その平然とした表情に、どの面下げてと思いはしたが、怒りはしっかり飲みこんでから口を開いた。
「いいかげん、人の褌で相撲を取るのはやめていただきたい」
勝千代の突き放すような口調に、ぎょっとしたのはまりも頭だけだ。
伊勢殿は若干体勢を変えたものの、態度を改めようとはしなかった。
「童子が偉そうな口を利く」
「恥じる気もちもないようですね」
ビシリ、と空気が凍った。
口で争う段階ではもはやないのはお互いにわかっている。
それでも勝千代は苦情のひとつも言いたかったし、何故こんな事をと声を大にして詰問したかった。
「……まだ諦めませんか」
だが、まっすぐにこちらを見ている黒々とした双眸を見ているうちに、口を突いて出たのはそんな言葉だ。
伊勢殿は鼻を鳴らし、口角を引き上げた。
「勝機はある」
「ありませんよ」
勝千代はバッサリと切り捨て、伊勢殿を破滅の方向に誘導したに違いない男を横目で睨んだ。
「今すぐここで自裁するか、首を刎ねられるか、選んでください」
「笑止」
伊勢殿だけではなく、長綱殿まで鼻で笑い飛ばしやがった。
面と向かって話してみて、やけに静かな彼らの様子に違和感を覚えた。
状況が分かっていないはずはない。
考える頭がないわけでもない。
ならば焦りもしないその自信は、何を根拠にしたものか。
「三万の兵が攻めて来るそうだな」
まるで他人事の、笑みさえ含んだ伊勢殿の言葉に、勝千代の眉が寄る。
ちらりと盗み見た長綱殿が、何の反応も見せず……いや、ひと際笑みを深くしたようなのが気になった。
まだ何かあるのか?
あらゆる可能性を考えつくしたはずなのに、凡人では届かない境地での一手を打たれているような気がして、落ち着かない。
「駆けつけずともよいのですか? せっかく御身内を遠江へ逃したのに」
含み笑う長綱殿。
「東へ西へご苦労なことだ」
馬鹿者よと見下したような伊勢殿。
……こいつら。
露骨に勝千代の失態を狙ってきている。
失態? わざわざ遠江に行った方がいいと煽って、その逆を望んでいるということがあるだろうか。
この食わせ物な二人からは何も引き出せないかもしれない。
考えても正解にたどり着ける気がせず、早々に別の方法で行くことにした。
つけ入る隙ならば彼らの真横にいる。
勝千代は、見るからに狼狽しているまりも頭に視線を向けた。
額の真ん中に目立つ黒子があり、頬に無数のニキビ跡があるが、顔立ちはそれほど悪くはない。年齢は二十代後半から三十代。僧侶というには武骨で、武家を名乗るには軟弱そうで、公方を名乗るには高貴さにかけるような気がした。
いや、思い返してみれば吉祥殿とてあんな感じだったし、足利一門というだけでパーフェクトな貴公子になるわけではない。
目が合って、明らかに顔色を悪くした義宗様。
「野心はまだありますか。身の安全とどちらを望まれますか」
挨拶も何もなく、初手からぶしつけな問いをされ、その視線が伊勢殿を縋るように見つめた。
それだけで、二人の関係性が透けて見えた。




