54-2 駿府 今川館 大広間2
「お、お待ちくださいませ!」
例の声の大きな下級文官が、速足に廊下に出た勝千代を追って出た。
「どうか、どうか」
あまりにも必死なその声色に、思わず皆の足が止まる。
気を削がれて不快の表情をする者たちに「ひっ」と腰を抜かしかけたが、つるつる滑る床を何とか踏ん張ってその場で両手両膝を付いた。
「奥平様をお救いくださいませ!」
知己の名を聞いて振り返り、その必死の形相に首を傾げる。
そういえば戻って来てから奥平の顔を見ていない。あの男の職域なら大広間にいてもよさそうなものなのに。
「伊勢様の配下の方々に叱責され、切り付けられてっ」
どうやら例の、持ち出した重要なもの云々は、奥平が奥で聞き出してきたことらしい。
本来あの男は桃源院様の用人だった。伊勢殿ともつながりがあった。その伝手で色々探りを入れているうちに、疑われてしまったとか。
「容体は」
「わ、わかりませぬ。ここに閉じ込められてから、どうなっているか……」
相変わらずアンラック体質らしい奥平を探すことを約束すると、その男はいかにもほっとしたような顔をした。
だが奥平からの情報か。三河から親書が来ているから、あながち偽りというわけではなさそうだが……いや、この期に及んで桃源院様の紐がついているとも思えないし、運がないだけであの男も無能ではない。
誰もが命を張って、出来る限りのことをしようとしている。
勝千代は北殿に向かって歩きながら、他力ありきで復権を望む伊勢殿や、そんな男を頼りにしているのだろう奥の御方へ、いったいどう始末をつけてやろうかと唇を噛んだ。
御屋形様を含め、もはや誰のこともあてにはできない。
三万の軍を何とかしなければならないのは勝千代で、もしその責任を放棄してしまえば今川家は食われてしまうだろう。
だが何とかしなければと言って、どうすればいい?
数で勝る敵に、正面から戦うのは蛮勇にすぎる。
しかし三万か。
真っ先に思ったのは、それだけの人数にかかる経費のことだ。どれだけの兵糧が必要なのかと試算してみようとして諦めた。道中の、おそらくは東海道沿いの各国の領主から兵と兵糧をむしり取ったのだろう。
そうなれば数は多くとも、きっと士気は高くない。松平のように義理で参加している者も多いはずだ。
そこまでして遠国に攻め込もうという意欲に感心する。
幕府の権威というよりも細川家の力だろう。伊勢殿はそこまでさせる何を持ち出した?
「松平の親書だけを鵜呑みにするのは早計です。真実細川が伊勢殿あるいは義宗様を追っているのだとしても、三万というのは怪しいとみるべきかと」
歩きながらそう言う朝比奈殿は、やはり懐疑派かつ慎重論。
「理由はともあれ、攻めてくるという話が真であれば、引くわけにはまいりません」
おどろおどろしい黒備え渋沢は、脳筋の強硬派だ。
「数は問題ではない」
そんなわけあるか。
勝千代は呆れて渋沢を見た。
遠い親類の為に、十倍の敵と真正面から戦うわけにはいかない。
勝千代は喧々囂々意見を交わしあう二人の声をBGMに、もう一度松平からの親書の内容を思い返していた。
大きく書かれた三万という数に目が行ってしまい、細かい部分はよく見ていなかった。あとは何とあった?
大逆者。そうだ、大逆者と書かれていた。謀反でも騒乱でも盗人でもなく、大逆だ。
大逆というのは、主君を害するという意味だ。
伊勢殿の主君といえば、もちろん公方様だが……それだけだとは言い切れない。
「勝千代様?」
「……例えば」
急に立ち止まった勝千代に、二人が訝しげな声をかけてくる。
「将軍宣下の条件が、畏きどころへ弓を引いた者の首を上げたほう、とされた場合はどうなる?」
帝の死は伏せられているが、一連の事を黙って飲み込むかは別問題だ。
あの東宮様が、いたずらに戦火を広げるような事をするとは思いたくないが、宮中の決定が、必ずしもあの御方の御意思に沿うものだとは限らない。
プライドの高い公家衆が、身勝手な争いを続ける武家の鼻面を掴んで振り回してやりたいと思ってもおかしくなかった。
駿河は遠方だ。補給路が長くなれば、それだけ彼らの身はすり減る。
特に阿波の方の細川は京にいる段階ですでに兵糧が枯渇していた。
堺衆が放出した例の米を買い付けたとしても、銭はかさむし、長い補給路に苦労するだろう。
「与平」
「はっ、はい!」
「段蔵に、細川軍の小荷駄隊を調べるようにと伝えろ」
段蔵はすでに三河に向かっている。もちろん攻めてきている兵の実際を調べる為だ。
影供としてついてきていた与平に、急ぎ段蔵を追うようにと命じる。
遠ざかるその背中を見送っていると、同じように立ち止まっていた渋沢が心得たように数回頷いた。
「なるほど、奇襲ですか」
勝千代が「えっ?」と声を上げて振り返ると、難しい顔をした朝比奈殿もまた頷いている。
「こういう場合は補給を断ち、それ以上は先へ進めぬようにするのが定石ですな」
「敵は京からの長旅に疲弊しているはず。兵糧が絶えれば長くは戦えませぬ」
ああうん、それはそうなんだけど。
「こういう時に井伊殿がいてくだされば、東三河の地理について御詳しいでしょうに」
まって、朝比奈殿までまさか全面対戦前提?! しかも三河国内で決戦予定??
勝千代は慌てて両手を前に出した。
ふたりはぴたりと口をつぐみ、首を傾げてこちらを見下ろしている。
「戦は避ける前提だ」
「もちろんそれは重々承知しております。ですが補給を断ち足を鈍らせることは、悪い手ではありません」
「そうです。取り急ぎ手を打ち、曳馬の手前で止まってもらいましょう」
ふたりして「わかっている」という風に頷くが、絶対にわかっていないだろう!
そうだ、忘れていた。
慎重に見える朝比奈殿も、所詮は戦国の武士なのだ。




